TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#1】なぜ「自分らしさ」に縛られるのか?
執筆:橘玲
2026年2月9日
2021年に公開された『花束みたいな恋をした』(坂元裕二脚本/土井裕泰監督)は、若いひとたちにとても人気のある映画だ。東京の大学生、山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は、終電を逃したことをきっかけに深夜営業のカフェで語り合い、小説や映画、音楽などの趣味が一致したことで盛り上がって恋人同士になる。大学を卒業すると、2人は多摩川沿いのアパートを借りて同棲生活を始め、麦はイラストレーターを目指し、絹は医療事務の仕事をしながら「好きなもの」に囲まれた生活を楽しんでいる。
最初はうまくいっていたものの、親たちから社会人としての責任を問われ、安く買いたたかれるばかりのイラストの仕事にも限界を感じた麦は、営業職の仕事に転職し、先輩たちから期待されて働くことをはじめて体験する。一方、絹は収入が減るにもかかわらず、好きなことを仕事にできるイベント会社に転職する。
そのことにいら立った麦は「仕事は遊びじゃないよ」「好きなことを活かせるって、そういうの、人生なめてるって考えちゃう」と説教し、勢いで絹にプロポーズするが、「思ってたのとちがった」といわれ、恋愛感情が徐々に冷めていく――というストーリーだ。
この映画は、文芸評論家の三宅夏帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)をはじめとして、多くのひとに論じられた。三宅さんは、仕事の忙しさに追われる麦が、本を読めなくなって“虚無の表情”で「パズドラ」(パズル&ドラゴンズ)をするシーンや、2人で行った書店で麦が自己啓発本を手に取るシーンを取り上げて、社会人になるとなぜ、好きなことができなくなってしまうのかを問う。そして、明治以来の「教養」と「修養」の歴史をひもときながら、働きながら本を読める社会をつくっていこうと読者を後押しする。
『花束みたいな恋をした』と『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が評判になったのは、誰もが漠然と思っていること、すなわち「大人になると自分らしく生きられなくなる」という現実をあらためて突きつけたからだろう。
映画のなかに印象的なシーンがある。同棲4年目で恋愛感情も冷めた麦と絹は、友人の結婚式に出席したあと観覧車に乗り、カラオケを歌って、ファミリーレストランで別れ話をする。ところがその途中で、麦は突然、「別れなくていいと思う。結婚しよう」と言い出す。
麦 いま家族になったら、俺と絹ちゃん、うまくいくと思う。子どもつくってさ、パパって呼んで、ママって呼んで、俺想像できるもん。3人か4人で手つなぎながら、多摩川歩こうよ。ベビーカー押して高島屋行こうよ。ワンボックス買って、キャンプ行って、ディズニーランド行って、時間かけてさ、長い時間いっしょに生きて、あの2人もいろいろあったけど、なんかいまは仲のいい夫婦になったねって、なんか空気みたいな存在になったねって、そういう2人なろうよ。結婚しよ。幸せになろ。
この場面にリアイリティがあるのは、麦の必死の言葉を聞いている絹の表情がどんどん冷めていくことだ。それでも最後には、「そうかもしれないね」「そうだね。結婚……だったら、家族だったら」と、大人になることを受け入れるべきなのかもと迷う(絹は麦のことが嫌いではないのだ)。
だがそのとき、かつての自分たちを思い出させるような若いカップルが近くの席に座って、その初々しい会話を聞きながら、2人は失ってしまったものと、それが二度と戻ってこないことを思い知る。こうして麦と絹は別れることになった。
マイナーな趣味を共有していたとしても、じつは2人のあいだには「文化的階級」のちがいがある。
地方の花火職人の家で生まれ育った麦は、結婚を「男が家計を支え、女が子育てをする(そして家事のあいまに「好きなこと」をすればいい)」という昭和の価値観でしかイメージできない。だが東京出身の絹は、父親が大手広告代理店の幹部らしき裕福な家庭の一人娘で、夫の稼ぎに頼って生きていく必要はない。麦は絹に「世の中そんなに甘くない」というが、絹にとっては、暮らしに困ればいつでも実家に戻って「好きなこと」を続けるという選択肢が用意されているのだ。
だから、「大人になれ」といわれると困惑してしまう。なぜなら、「大人になる」理由など彼女にはないのだから。――その意味で麦との同棲は、彼女にとってはちょっとした「冒険」だったのかもしれない。
「大人になると自分らしく生きられない」ということは、逆にいえば、「大人にならなければいつまでも自分らしくいられる」ということだ。そして、人類史上未曽有のゆたかさを実現した欧米や日本・東アジアでは、「大人にならない」という生き方が可能になった。『花束みたいな恋をした』は、この2つの価値観のギャップを麦と絹に代表させて描いたからこそ、多くのひとに「刺さった」のではないか。
私はリベラリズムを、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくっていこう」という運動だと考えている。そんなの当たり前だ、と思うのは、生まれたときからこの奇妙な価値観に深く浸されて生きているからだ。江戸時代や明治時代はもちろん戦後初期でさえ、平民・庶民が「自分らしく生きたい」といえば、奇異な目でみられるか、頭がおかしくなったと思われただろう。
だがその後、「自分らしく生きる」という価値観は急速に世界を覆い、もはや誰も(右翼・保守派ですら)否定しなくなった。「天皇制」や「靖国」を日本の伝統として護持するべきだと唱えるひとたちも、自分の子どもに「伝統に従属して生きていくべきだ」などとはいわない。――業界では「極右」とされる編集者と話したことがあるが、長女がピアノをやっているという話になって、「娘さんには自分らしく生きてほしいと思ってるんですよね」と訊いたら、言下に「当たり前ですよ」といわれた。
「自分さがし」や「自己実現」ともいわれるこの新しい価値観は、1960年代半ばにアメリカ西海岸で生まれ、「セックス、ドラッグ、ロックンロール」の文化的な潮流とともにまたたくまに世界中に広まった。インターネットもSNSもなく、海外の情報は新聞やテレビ、翻訳書や輸入盤のレコードで入手しなければならなかったことを思えば、これはものすごいことだ。
私の理解では、ヒッピームーヴメントとは「自分らしく生きたい(大人になりたくない)」という理想を徹底的に追求したラディカルな社会実験で、それは1970年代の「保守化」によって潰えたように見えるものの、じつはその残り火は社会の奥深くでずっと燃えつづけ、半世紀を経て、よりソフィスティケート(文化的に洗練)されたかたちで世界中のひとたちの人生を規定している。
わたしたちはなぜ、これほどまでに「自分らしさ」に呪縛されるのか。それを知るために、この連載では60年代へとその起源を辿ってみたい。それによって、「あらゆることはすでに語られていた」ことがわかるだろう。
プロフィール
橘玲
たちばな・あきら|1959年生まれ。2002年、小説『マネーロンダリング』でデビュー。2006年、小説『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補作となる。以上、二作に小説『タックスヘイヴン』を加えて〈マネーロンダリング三部作〉と呼ばれる。他に30万部を超える『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』、100万部超の『言ってはいけない』シリーズほか、新しい教養・啓蒙書でのベストセラーも多数。
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