カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/若木信吾

2023年4月13日

photo: Kazufumi Shimoyashiki
text: Neo Iida
2023年5月 913号初出

アメリカの風に惹かれ、
浜松からニューヨークへ。
自ら切り開いた、フォトグラファーの道。

 ピーピーピー。アリゾナの砂漠のど真ん中で、ポケベルが音を立てている。アメリカ横断中だった若木信吾さんは、公衆電話に駆け込み、番号をダイヤルした。すると「ウォン・カーウァイの撮影で浅野忠信さんが香港に行くので撮ってほしい」。しまった、パスポートはニューヨークの自宅に置いてきてしまった。相次いでロサンゼルスでglobeの撮影も決定。そんなふうに世界をビュンビュン飛び回る仕事が、ポケベルひとつで決まっていく。「なんだかめちゃくちゃでした」と若木さんは20代を回想する。その長い旅は、浜松の中学時代から始まった。

「真面目に写真をやろうと思ったのは中3ぐらい。担任の先生が浜松では有名なカメラコレクターで、写真も撮っていて、『写真やりたいんです』って言ったら『じゃあ大学に行ったほうがいいな』と。当時、関東だと写真学科があるのは日芸(日本大学芸術学部)くらいで、大阪芸大もあるなあとか悩んで。まあ、まず高校行けって感じなんだけど(笑)」

 高校は地元の進学校に進み、写真部に入って雑誌のコンテストや県のコンクールに応募し始めた。’80 年代半ば。世間のムードはアメリカに染まっていた。

「小学校まで歌謡曲ブームだったのに、中学ぐらいで急にラジオから『American Top 40』や小林克也さんの『ベストヒットUSA』が流れ始めて。静岡エフエム放送も開局して、アメリカの音楽が入ってきたんです。レッチリもデビューし、高校に入るとRUN DMCが来日。一気にヒップホップが気になり、アメリカ漬けに」

 学費が同じなら、物価の高い東京よりアメリカで生活したほうがいいと考えた。留学ブームも追い風になり、高2で渡米を決意。写真でもアメリカに惹かれた?

「日本はその頃、パキッとした広告写真が全盛で、一方で’70 年代の新宿派の空気もまだ残っていました。高校生の僕にはあのアングラ感は難解で、ブルース・ウェーバーとかハーブ・リッツが撮るカリフォルニアの明るい風に惹かれたんです」

 ニューヨーク出身の英会話スクールの先生におすすめの学校を聞くと、「RIT」ことロチェスター工科大学写真学科がいいのではないかという。留学生が準備すべきは成績とポートフォリオとエッセイのみ。13歳から撮り続けていた祖父の写真を作品として提出し、見事合格。19歳になる春、晴れてアメリカに渡った。

「いったんロングアイランドにある英会話学校の先生の実家に泊まらせてもらって、マンハッタンも見物して、『こんなところで勉強するのか』ってワクワクしてたんです。でも大学のあるロチェスターはそこから車で7時間。同じニューヨーク州でも札幌と網走くらい離れてる。アムトラックで駅に着いたら、駅周辺がゲットーで注射針なんか落ちていて、学校も殺風景だし、ちょっと衝撃でした」

 駅の周りは荒っぽいけれど、自然は豊か。オンタリオ湖に面したつくばのような学園都市で、湖の向こう側にはカナダの大都市トロントがある。始まってみると、大学生活はとにかく楽しかったという。

「TOEFLスコアが足りず、1年目は英語のスクールに通ったんです。英語以外に勉強することがないから、めちゃくちゃ遊びました。夏はテニスとゴルフ、冬はスキー。夜はクラブに行って、日本人の友達もDJをしに来たりして。大学のカフェテリアでハウスパーティやって。19歳は普通のチャラい学生でしたね」


AT THE AGE OF 20


大学時代、課題「ポートレート」の解答として、セルフタイマーでシャッターを切った一枚。金髪&ショートヘアで、〈XLarge〉のTシャツ、デニム、そして〈VANS〉。生粋の’90sストリートキッズないでたちがカッコいいし、マイケル・ジャクソンの紙袋も強くていい。この頃、映画学科の友人に頼まれて自主制作映画『アンテナマン』にも出演。街中の電波を荒らす怪人を倒す物語で、若木さんは数カットながらキーマンとなる刑事役を熱演したそう。アメリカの学生生活、羨ましい!

 1年後に正式に入学。でも、学校では一切撮り方を教わらなかったんだそうだ。

「課題が出て、現像した写真が壁に貼り出されて、説明しながらみんなであーだこうだ言うだけ。楽しかったです。一般教養は1日200ページくらい本を読まないといけないから大変でしたけど」

 医学写真学科も写真技術学科もハードと聞いていたけれど、若木さんがいた広告写真学科だけ非常に緩くて、卒業論文も卒業制作もなかったんだそう。

「写真館の息子なんかは地元に帰るんですけど、100人くらいいる生徒のうち、5人ぐらいは写真家を目指す。僕もその中のひとりで、卒業後は友達とマンハッタンでルームシェアを始めました」

 4年の大学生活を経て、ニューヨークで独立。周りのフォトグラファーを真似て、写真のサンプルに連絡先を書いたダイレクトメールを自作して配った。しかし、アメリカ人で弁が立つ友達は仕事が決まっていくのに、自分はナシのつぶて。

「ぐったりしてたら、その友達がニューヨーク・タイムズマガジンのエディターを繋いでくれて、仕事をもらえるようになりました。1回行けば200ドルくらいもらえるから、なんとか食べられる。それでまた声を掛けてもらえたりして」

 2年がたち、ビザが切れるので一時帰国した。せっかくだから営業しようと、ニューヨークの紀伊國屋書店で『デザインの現場』を買い、デザイナーや編集者の連絡先に「東京行くんですけど会ってもらえませんか」と片っ端から電話をした。

「ニューヨークではそうやって仕事をとるのが普通だったのに、日本は師匠が弟子に仕事を紹介する徒弟制が根強くて、誰もポートフォリオを持って回らない。それを面白がってくれたのか、皆さん快く『いいよ』って。ご飯もご馳走してくれるし、日本最高って思いましたね。岡本仁さんや仲條正義さん、そのとき会った方にはその後もお世話になりました」

 アメリカに戻ると、少しずつ東京の仕事が入り始めた。やがて拠点をサンフランシスコに移した頃には、日本の仕事を中心に月額100万ほどの稼ぎができていた。行ったり来たりの生活だと収入は減ってしまう。若木さんはアメリカから引き揚げ、東京に軸足を置いてファッションや雑誌の仕事に邁進した。

「でも、まだ遊びの延長でした。若い頃ってお金が要らないじゃないですか。自分だけ楽しめたらいいし、稼ごうという気持ちもない。それより楽しい撮影があれば、っていう感じでしたね。『ロッキング・オン』がビースティ・ボーイズを取材すると聞いて、『俺じゃないと撮れないと思います』みたいなイケイケの売り込み方で」

 写真熱が高まりを見せた’90 年代。アメリカ帰りのフォトグラファーという経歴の若木さんは、特異なポジションを築いていたに違いない。26歳でパルコギャラリーで展覧会デビュー。東京で営業をしたときに展示がしたいと思った憧れの場所で、同級生のマイク・ミンさんと「Let’s go for a drive」という作品群を作り、展示を行った。冒頭のポケベルのバタバタが巻き起こったアメリカ横断は、この制作の旅だったのだ。さらに28歳で祖父の写真をまとめた『Takuji』を出版。モノクロの静けさが印象的だった。20代は「チャラかった」と振り返りつつも、個展に写真集に、着実に実績を積んできた若木さん。師匠につかず、海外で道を切り開くのって不安じゃなかったんだろうか。

「大学を出てマンハッタンに行った頃はもちろんありましたよ。でもみんな必死で生きていて、能力や肩書がなくても、自分を少しでも上げて見せようっていう気概がすごかった。それは勉強になった気がします。それに、若い頃はなんでもチャレンジしようって思ってました。失敗したって、もともと何もないんだから」

プロフィール

若木信吾

わかぎ・しんご|1971年、静岡県生まれ。1999年、祖父を撮り続けた写真集『Takuji』が国内外で高い評価を受ける。『白河夜船』などで映画監督としても活躍する他、出版社「ヤングトゥリー」を主宰。2010年に浜松に書店『BOOKS AND PRINTS』をオープン。

取材メモ

若木さんが東京で最初に住んだ鎗ヶ崎。「当時、代官山にスタイリストや業界関係者が多く住むマンションがあって、大家さんに空室を尋ねたら『若いし小っちゃくていいよね』と別のマンションの小さな三角形の部屋を紹介されて。アシスタントがドアを開けると全部丸見え。でも結構長く住みましたよ。現像所も近くて、出来上がったら家のポストに投函してくれるから便利だったんです」