カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/岩崎う大

2026年3月25日

photo: Takeshi Abe
styling: Yusuke Matsumoto (anahoc)
hair & make: Chishiki Matsumoto (dynamic)
text: Neo Iida
2026年4月 948号初出

高校時代、単身オーストラリアへ。
日本に焦がれ、笑いの本質を知り、
コメディアンになると決心した。

今も鮮明な3歳の記憶を持つ、
独自理論を構築する少年。

 劇団かもめんたるを主宰し、ロングコントや演劇も手掛け、お笑い界の枠にとどまらない才能を放つ岩崎う大さん。幼少期の話を聞いてみると「3歳くらいの記憶があるんですよ」。幼稚園に通っていた頃のことをはっきり覚えているそう。

「何で生まれてきちゃったんだろうって考えてました。お母さんに怒られるとかしょうもないことがきっかけですけど、大変な世界に生まれてしまった、でも別の人生を生きても面倒くさいなあって。生まれる前は何やってたんだろうと思ったりもしましたよ。宇宙に果物みたいにぶら下がってるイメージでした」

 自我の芽生えが早く、常に思考を巡らせていた幼稚園児。世の中の色々に興味があり自身の感覚にも敏感だった。

「“恥ずかしさ”みたいなものが軸としてあったかも。お母さんの友達が家に来てるとき、『お尻が痒い』って言ったらパンツを脱がされて、ほかほかのタオルでお尻の穴を拭かれたのが恥ずかしかった」

 小学生の頃は恥ずかしがり屋だけど、面白いことも好きで、担任の先生がよくおいしい役割を振ってくれた。

「誰かのギャグを真似るとかじゃないですね。そこに目を付けたか、みたいな着眼点が面白がられていたんじゃないかな。変わり者と思われてた気がします」

 3歳で弟が、小学校1年生のときに妹が生まれ、当時3人きょうだいだった岩崎家。母親は子供に「自由に過ごしなさい」というタイプだったが、厳しさも持ち合わせていて、きょうだいたちに家事をきっちり分担していた。一方で弁護士の父親は仕事で忙しく家庭には無頓着。怖いというよりたまに登場するレアなキャラ。家族仲は良く、楽しい毎日だった。お笑いの興味は友達と変わらず、ドリフターズに『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にダウンタウン。岩崎家特有のイベントといえば映画だ。父親の影響で、週末になると一緒にレンタルビデオを観たという。

「うちの両親はね、親の好きなようにするっていう感覚の人たちなんですよ。作品のチョイスも自分たちが観たいものだし、吹き替えじゃなくていつも字幕。ベッドシーンがある作品もありました。でも横で観ていて面白かったんですよね」

 中学では野球部へ。友達と一緒に入っただけで、運動は得意じゃないからレギュラーにはなれず。しんどかったが独自のやり方で負荷を和らげていたという。

「みんな授業のあと部活に行くんですけど、僕は一回家に帰ってユニフォームに着替えて、ランニングとかが終わってから参加してました。勝手に。なんで許されると思ったのかわからないけど、結局咎められなくて。僕の中では野球の才能があるヤツがそんなことしてたらチームに迷惑かけるけど、補欠だしいいじゃんみたいな。辛くなり過ぎないように、抜け道や空気穴を作って予防線を張る、そういう癖があるのかも」


AT THE AGE OF 20


写真は早稲田大学のキャンパス内、「自然な写真を撮るふりをしつつ完全停止している」という姿が面白いと思って撮ったもの。当時はお笑いサークルWAGEで小島よしおさんや槙尾ユウスケさんと活動をしながら、事務所を必死に探していた。「お笑いは勉強以外で初めて『才能あるかもな』と思えたことだったんですよ。だからオーディションを受けに行けば『お前みたいな奴を待ってた』みたいになると期待してたのに、全然そうならなかった。キャンプサークルにも入っていて仲良かったんですけど、みんな普通にいい会社に就職する人たちで、芸人になりたい俺とは違うなあと思ったり。焦ってましたね。プロになりたいし、叶わないんだったら意味ないと思ってました」

3年間のオーストラリア留学で、
笑いの本質に気付いた。

 中学3年のとき、両親が「海外に行く」と言い出した。子供に英語を話せるようになってほしいということで、父親の仕事の兼ね合いでオーストラリアに住むことになったのだ。東京にも家を残し、1年で家族は日本に戻り、う大さんはそのまま留学を続行。つまり高校3年間を海外で過ごした。

「僕だけ寄宿舎に入って、最初の1年間は週末になると家族のアパートに帰って楽しくやってました。でもやっぱり心細いですよね。言葉が通じないし、パースは西オーストラリア州の州都だけど田舎なんですよ。失業率が高くて景気も悪くて、出稼ぎのアジア人へのヘイトや偏見もあって。学校でインドネシアの少年が白人の生徒たちに暴行される事件が起こって新聞の一面になったことも」

 入学したのはアジア人を受け入れる制度がある、日本の六大学のような活気ある高校。う大さんは全員が履修する授業の他に、英語を母国語としない生徒のためのクラスも取った。仲良くなるのはそこで出会ったアジア人ばかりだった。

「現地の子の気持ちもわかるんです。思春期にわざわざ言葉が通じない人とつるむ必要はないっていうか。一人だけ、めっちゃ仲いい白人の友達がいたんですけど、卒業したあとにアジア人の女の人と付き合ったって聞いて、あれっと思っちゃったんですよね。あの優しさって……? みたいな。ポジティブな態度って、意識的にも無意識的にも、その人自身の何かに繋がってるのかなって。まあたまたまって可能性もあるし、僕の中では全然面白い話なんですけど」

 自分だから、じゃなく、アジア人だから仲良くしてくれたのかもしれない。優しさの裏側の、奥底まで見えてしまう感性は、持って生まれた才なんだろう。留学生活後半はホームステイに移った。下宿先は70歳くらいのバーバラという女性が一人で暮らす家だった。

「スティーヴン・セガールが好きで、よくビデオを一緒に観てました。でも一回喧嘩して冷戦状態に。急に『You are arrogant!』って言われたんです。『Arrogant』がエレガントに聞こえたけど、実は『傲慢』って意味で、え傲慢? みたいな。その後、突然『今まで私が悪かった』と言われて、『そりゃそうだよ』と思いながら仲直りしました」

 バーバラのボーイフレンドが家に来た日、う大さんは初めて「将来はコメディアンになりたいんだ」と打ち明けた。

「以前からダウンタウンさんにすごく憧れてて、日本を離れたことでより日本のお笑いって面白いと思うようになったんですよね。向こうでは日本の番組は観られないけど、ある日本食屋さんの一角に家で録ったビデオテープがあって、ダウンタウンさんの番組を3倍モードで録ってあるのが入ってて。たまに借りて観てました。でもお笑いをやる手段はなかったから4コマ漫画を描いて、韓国人の友達に見せたりして」

 さらに現地でよく観たのが『シンプソンズ』だった。日本にいた頃は興味がなかったけれど、面白さに気付いたそう。

「海外の笑いはお芝居がベースだったりするから、人間ドラマを丁寧に描いたほうが大きい笑いになる。勉強になったと思うし、現地の生活に不満を持ってた僕でも面白いと思うってことは、味付けは違えど本質的に面白いものは万国共通なんだと。偏見を持たなくなりました。英語を理解して、日本語の自由度、繊細さも感じ取れましたね」

 日本に戻り、NSCに入ろうと思ったが母親に止められる。「大学に入りさえすればいい」の言葉で早稲田大学に入学。お笑いサークルに入った。海外の高校を卒業したため、1年遅れて1年生に。二十歳のう大さんには久しぶりの日本が眩しかった。

「海外に行ってた3年間って、めちゃめちゃ日本が楽しかった時期だと思うんですよね。ポケベルが流行って携帯が出てきて。俺は日本で高校生をやらなかったから、変な憧れはあるかもしれない。あの時代を日本で過ごしてたら、何の特徴もない芸人に成り下がってた可能性もあるし、ポップで王道な芸人になってたかも。それはわからないけど、あの3年間を取り戻すかのように大学生活を楽しんだ気がします。同時にお笑いへの焦りもあって、頑張ってましたね。溺れる人が空気を吸おうと水面に顔を出そうとしてる状態。今思えば真面目で面白みのない奴だなっていう気がする。けど、まあそれが俺だもんなっていう感じです」

プロフィール

岩崎う大

いわさき・うだい|1978年、東京都生まれ。早稲田大学時代、5人組のコントグループWAGEとしてデビュー。のち、槙尾ユウスケとお笑いコンビかもめんたるを結成。2013年キングオブコント優勝。著書に『家族コント』。2026年夏に劇団かもめんたる第16回公演(仮)の上演を予定。

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https://x.com/udaikamomental

取材メモ

大学時代、う大さんはよく早稲田から東西線で中野まで出て中野ブロードウェイに寄り、西武新宿線の新井薬師前駅まで歩いていたという。取材場所の劇場にはWAGE時代からよく出演していたとか。「サークルの正式名称が『コントグループWAGE』なんですよ。『ボキャブラ天国』の流れから、ショートコントもユニットコントもやる。コンビだと二人だけのストイックさも滑ったときの悲惨さもあるけど、ユニットだと大勢で滑って笑えるから楽しかったんですよね」