
僕は三軒茶屋に4年間住んだ。
実のところ、タイトルは「嫌いだ、三軒茶屋」にしようとした。
しかし、編集の方から〈添削のお願い〉というメールが届きそうで、それなら事前対策として、ほんの少しだけまろやかに「好きになれなかった三軒茶屋」に変更した。
およそ10年前の冬。
家賃、広さ、間取り、日当たり、すべてが完璧なマンションの一室を見つけ、引っ越しを決意。広尾から三軒茶屋へ。
そう、僕は元々、お上品な街、広尾に住んでいたのだ。
近所の小学校に通う低学年の女の子に、
「ジャルジャルふくとくさまでしょうか?いつもおうえんしています」
と声をかけられたこともあった。
そんな大好きな広尾から引っ越し。初日ならではの終わらない片付けに終止符を打ち、空腹を満たすため新居を飛び出した。
すっかり夜。
路上から自分の部屋の明かりがもれる窓を見つけ、心が踊った。
三軒茶屋の夜空には、〈冬の大三角〉の星のひとつ、オリオン座のベテルギウスは見えなかった。
でも僕にとったら新居の窓からもれる明かりこそ、冬の大三角の星のひとつに等しかった。
無駄な思考にウキウキしながら、いざ、出発。
気がつけば、三軒茶屋の三角地帯と呼ばれるエリアに迷い込んでいた。飲み屋だらけ。裏路地みたいなところにも飲み屋があったりで、とても新鮮だった。
ちなみに僕はお酒を1滴も飲まない。だから目的はメシ。
とりあえず、三角地帯を抜けることを目的にしながらも、メシ屋を探した。辺りをキョロキョロ。
キョロキョロキョロキョロ。
そして、事件が起きた。極めて単純な事件だった。
──嘔吐物を踏んだ。
絶望的状況。最悪。
現時点、当然、絶望的。くわえて、嘔吐物を踏んだ靴をいくら洗ったとしてもコレで新居に帰るのも嫌、コレを靴箱に入れるのも嫌、という近い未来も絶望的。
しかし、こんな状況でも希望はあった。
偶然、近くの飲み屋の店員さんらしき〈おじいさんとおじさんの中間くらいの人〉が、
「これよかったら使え」
と、どこかに繋がっているホースを貸してくれた。
お礼を言うと、その人は、
「最悪だな。三茶はゲロ踏むぜ。だからたまには下向いて歩けよ。人生と一緒だよ。たまに下向いて歩いた方が安全なんだ」
と、映画のワンシーンみたいでカッコよかった。
さらに続けて、
「オイラは三茶が嫌いだ。でも三茶にいる人は好きだ」(このセリフは一言一句正しい)
と格言みたいなことを発した。
僕は絶望的状況でありながらも、少なからず〈素敵〉と触れ合っているような気がした。とはいえ不快な気持ちで靴の底を洗っていると、その人が突然うずくまり、
「うおぉ」
と低い声を出した。
僕は心配になり、今度は僕がこの人を助ける!という恩返し要素たっぷりの正義感で、その人に近づき、
「大丈夫ですか?」
と声をかけた。
すると、その人は、
──嘔吐した。
信じられなかった。この人は、近くの飲み屋の店員さんでもなく、ただの酔っ払いだった。〈おじいさんとおじさんの中間くらいの人〉でもなく、〈酔っ払いど真ん中〉だった。
僕は間一髪、この人の嘔吐物を除けることに成功。
心の中で、
やったー!
と大喜び。
こんなことに喜びを感じられたのは、僕が絶望的状況にいたからだ。
これが三軒茶屋の初夜の思い出。
この夜、僕は何も食べなかった。
そして、三軒茶屋を嫌いになった。
それから4年間、三軒茶屋の街で夕食を食べることはほとんどなかったし、いい店を見つける意欲もなかった。
三軒茶屋の初夜が明けた朝、僕にとって、三軒茶屋の初朝。僕を起こしたのは、めざまし時計ではなく空腹だった。
すぐに新居を飛び出し、朝メシを探した。
そこで見つけたのが、三軒茶屋駅すぐにある〈マメヒコ〉というカフェ。
ちょうど営業開始時間で、店内には誰もいなかった。一番乗り。嬉しかった。
嗅覚を優しく刺激するコーヒーの香り。
さらに、視覚を楽しく刺激してくれたのは、大きな花一輪。店内中央の大きなテーブルに大きな花瓶があり、そこに見たことがない大きな花が一輪だけ挿されていた。
コーヒーの香りを女性的に感じられたのはこの花の効果かもしれない。
正直、値段は強気だった。それでも僕には、正当な価格帯に感じられた。
コーヒーとたまごサンドを注文。
コーヒーは好みの苦さ。最高。幸せ。
驚いたのが、たまごサンド。完全なる個人的見解で語らせてもらうと、一般的なたまごサンドではなく、ゆでたまごとマヨネーズと刻んだセロリを混ぜたものをパンで挟んだ、特異なたまごサンドだった。
再度言うが、完全なる個人的見解。間違っていたらごめんなさい。
とにもかくにも絶品。もはや、べっぴん。
お腹と心は満たされた。
これが三軒茶屋の初朝の思い出。
三軒茶屋にはモーニングをやっているカフェが他にもたくさんあった。あちこちで最高のモーニングを見つけ、高貴な朝を何度も過ごした。
三軒茶屋の夜は嫌いだ。
でも三軒茶屋の朝は大好きだ。
総合的に三軒茶屋という街は、好きなのかもしれない。
いや、どうしても好きになれない。
