カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/大友良英

2026年10月20日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2026年11月 955号初出

福島のジャズ喫茶と東京の小劇場。
ノイズミュージックの胎動に触れながら、
『新宿ピットイン』を夢見た。

回路図を探し、発信機みたいな
シンセサイザーを自作した。

 連続テレビ小説『あまちゃん』の朗らかな劇伴で大友良英さんのことを知ったから、普段演奏しているノイズ音楽を聴いたときはびっくりした。ジャンルを超えて多様な音楽を生み出す大友さんは、二十歳の頃をどんなふうに過ごしていたんだろう。

「自分が何者になれるかもわからない、ギターも全然うまくならない。どっちを向いていいか悩みながら、音楽をやりたい気持ちだけがムクムクして。振り返ると辛そうだけど、多分楽しかったんじゃないかな」

 大友さんは横浜生まれ。3つ下に双子の弟がいる三兄弟で、活発な子供だった。父親は電気技師で、家には自作のテレビがあった。ラジオもレコードプレーヤーも自作したという。小学校3年生で福島市に転居。そこで活発じゃない子になった。

「初日にいじめられて。都会の子ヅラして嫌なことも言ったんです。部屋にこもってラジオを聴き始めて、音楽にハマって。ラジオ福島とNHKの電波しか入らないんだけど深夜になると東京のラジオが聞こえて。恋しかったんでしょうね。糸居五郎さんや亀渕昭信さんの『オールナイトニッポン』をよく聴いてました。グループサウンズが人気で、タイガースやテンプターズに夢中。そこからだんだんアメリカのヒットチャートを聴くようになりました」

 中学になるとロックにハマった。

「T・レックスの『イージーアクション』ってシングル盤がものすごくだらしない音楽に聞こえて、かっこいいと思った。番組に好きな曲をかけてもらう“電リク”(電話リクエスト)でかけてもらいました」

 学級委員長のナガヤマくんがサイモン&ガーファンクルをうまく弾くのを見て、ギターをやりたいと思い、大友さんは7000円の安いアコースティックギターを買ったが「挫折しました。Fが押さえられなくて」。でも音楽への興味は尽きない。プログレッシブ・ロックの世界ではシンセサイザーが登場し、冨田勲さんのような存在が注目され始めていた。大友さんも触ってみたくなる。

「高価過ぎて買えなかったけど、うちは父親が電気技師で家に部品や工具がいっぱいあって、回路図を探して自作したんです。発信機みたいなシンセサイザーのシの字にも届かないくらいの機械だったけど、ピョヨヨヨンって鳴ってね。それを組み合わせてモーグシンセサイザーみたいな外見のものを作って。中学2年のときでしたね」

 オープンリールのテープレコーダーで自宅録音も始めた。だがやはりバンドがやりたい。高校に上がると軽音部を覗いたが超人気。ギターも弾けないし……とジャズ研究部に入部した。


AT THE AGE OF 20


右は明治大学本館の中庭に佇む大友さん。左のライブ写真は大学のジャズ研の発表会を『六本木ピットイン』でやったもの。いずれも二十歳の頃。その頃、なぜか商学部にあった江波戸昭教授の民族音楽ゼミに通っていたそう。「前から民族音楽の研究者の小泉文夫さんのラジオ番組を聴いてたし、知らない音楽を聴くのが好きだったんです。インターネットもないしレコード屋にも世界の音楽は充実してないけど授業で紹介してくれる音楽が興味深くて。商学部でもないのに最優秀論文も取って、20代の後半にはその先生の家に住んでました(笑)」

ジャズ喫茶に入り浸る高校時代。
阿部薫を通じてノイズと出合う。

「ジャズは嫌いだけど、ジャズ研は3人しかいないし部室にギターアンプがあるからエレキでロックができるなと。でも先輩に『ロックはジャズができたら簡単なんだ。だからジャズからやれ』って適当なこと言われて、ジャズ喫茶に連れてかれて。そこでジャズ喫茶にハマっちゃうんですよ。高校と違って大人がいるじゃない。今考えるとそれは大学生なんだけど、怖そうなサングラスかけた人たちがかっこよく見えて。あと店内に置いてあるミニコミとかアングラ雑誌が面白くて面白くて」

 インターネットがない時代、ジャズ喫茶はカルチャーへの入り口だった。大友さんは東京のライブハウスへ通うようになる。『新宿ピットイン』で山下洋輔トリオを見たのもその頃だ。福島でもたまにジャズ喫茶でライブがあり、人生を変える出合いが。

「アルトサックスの即興演奏家の阿部薫さんのライブが毎月あって、意味がわからないながらも行ってたんです。お客さんも3、4人しかいないけど、阿部さんが『また来たね』とか声をかけてくれる。プロに声かけられた! って嬉しくなって、この音楽をわからないとダメかもと一生懸命聴きました。ある日学校帰りにギターを持っていったら阿部さんが『貸してくれる?』ってお店のアンプですごいフィードバックで鳴らして。やばい、なんなんだこの人! と思ったけど、今考えれば俺が今やってるのはそういうことなんですよ。あれがノイズ的なものに出合った最初だったと思う」

 小劇場「渋谷ジァン・ジァン」では、ノイズの開祖、高柳昌行さんの演奏を見た。だがノイズと呼ばれるジャンルへの理解は少なく、人はまばらだったという。

「まだ意味はわからなかったし、翌日も耳鳴りがしてました。ただ、客席に役者の殿山泰司さんや評論家の清水俊彦さん、副島輝人さんといった雑誌で見たことがある人たちが勢揃いしている。憧れの大人が集まる場所という感じですごく強烈でしたね」

 授業には出ず、ジャズ研の部室に通った。貸しスタジオがないから、福島大学や福島医大のジャズ研も行き来し、高校生も大学生もなく演奏した。学校は完全にドロップアウト。卒業後は音楽をやりたいと思った。

「高校生なのを隠してキャバレーで演奏してました。カラオケがないからバンド演奏だったんです。すぐクビになったけど、このままじゃ憧れの『新宿ピットイン』には到達できないよなって」

 プロになりたいけど方法がわからない。高校を辞めて東京に出る勇気もない。ガールフレンドと福島にいたい気持ちもあった。卒業後は浪人したが、彼女にフラれ、1年間ブラブラしたツケを抱えて受験に突入。なんとか明治大学第二文学部に受かり、上京。やはりジャズ研の扉を叩いた。

「先輩にバンドのスクエアや竹内直さんみたいなプロの人たちが何人かいたんです。大学に来ればプロになれるんだと」

 駿河台の明治大学本館は明治時代に建てられたレンガ造りの校舎で、地下の学食の隣に部室があった。授業には出ず、ジャズ研にばかり顔を出し、早稲田や法政のジャズ研を見に行く日々。楽しいけれど何かが違うと思い始めた。

「みんなプロを目指してるわけじゃないから合宿に行っても楽しいだけで。待って、俺プロになりたかったんじゃなかった? と思って。阿部薫に憧れたのに何やってんだと。それで高柳さんにギターを教わろうと思ったんです。当時は電話帳に芸能人でも誰でも名前が載っていたから、自宅に電話して『弟子になりたいです!』って。今思うとカンフー映画を観てるみたいだよね」

 高柳さんは一言「弟子は取ってない」。教室の生徒として通い始めたが上達せず、やがて“坊や”と呼ばれるアシスタントに。

「出来は悪かったけど好かれてたと思います。高柳さんはエレクトロニクスでノイズ的な音楽をやる先駆けで、僕は電気の技術があったから『音をこういうふうにしたいんだけど、作れるか?』って聞かれて、はい作れますって。数年間はべったりでした」

 結局、大学は退学。二十歳の頃、荻窪の『グッドマン』でテープとギターを使ったノイズのような演奏をしたのが最初のライブだ。1年くらい出たが行き詰まり、高柳さんの教室に行く毎日が続いたが、数年後喧嘩をして飛び出してしまった。その頃、ジャズピアニストの黒田京子さんに声をかけられ『新宿ピットイン』に出ることに。紆余曲折を経て、憧れの舞台に辿り着いたのだ。

「二十歳を過ぎても食べていけなかったけど、高柳さんという大好きで尊敬する人の近くにいれた。それに『新宿ピットイン』に出れた段階で人生の夢は果たせたんです。だから満足してましたね」

プロフィール

大友良英

おおとも・よしひで|1959年、神奈川県生まれ。ギタリスト、ターンテーブル奏者として即興やノイズの最前線で活動。映画・ドラマ音楽も数多く手掛け、連続テレビ小説『あまちゃん』で日本レコード大賞作曲賞を受賞。最新作は『ONJQ China Tour』。

取材メモ

『新宿ピットイン』で撮影。大友さんが通っていた時代は紀伊國屋書店の裏手にあった。当時の店長「怪物さん」にはとてもお世話になったという。「無名で若い人でも面白そうと思ったら『何かやってみろ』と声をかけてくれる人です。僕が高柳さんのところを飛び出したあと、高柳さんから怪物さんに連絡があったらしくて。怪物さんに『お前ジョジョ(高柳さんのあだ名)と喧嘩したのか』って聞かれて『俺が跳ね返って飛び出しちゃったんです』って言ったら『なんだ身内の喧嘩か。関係ねえや、出ろ』って言ってくれたの。すごく感謝してます。怪物さんは『覚えてねえな』って言うけど、話を通してくれたんだと思います」