カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/松岡修造

2024年4月11日

photo: Takeshi Abe
styling: Masato Nakahara (FOURTEEN)
hair & make: Kazumi Owada (APREA)
text: Neo Iida
2024年5月 925号初出

たったひとり、世界で戦った20代。
孤独を知るから今がある、
コートで愛を叫ぶ全力応援団長。

楽をするために厳しい環境へ。
逆転の発想で名門校へ編入。

「スポーツ選手というのは特別なんです。テニスの場合、プロフェッショナルとして活躍できるのは、20歳から大体30歳くらいまで。昔はもっと短かった。そのわずか10年間は、一生の仕事に相当するような密度です。つまり僕が現役を退いた31歳は、会社を勤め上げた60歳くらい。だいぶ感覚が違うと思います」

 スーツにぴしっと身をつつんだ松岡修造さんは、優しい口調で、でもはっきりと言い切った。世界を舞台に濃厚な10年間を過ごしたアスリートの経歴は華々し過ぎて、どこから話を聞いていいか迷ってしまう。

「でも、19歳くらいまでは世界で活躍するなんて想像できませんでした。当時、世界に挑戦する人は誰もいなかったので、いけると思ってなかったですしね。ただ、素晴らしいコーチとの出会いなど、偶然がうまく重なったんじゃないでしょうか」

 そんな松岡さんのテニス人生は、8歳の頃に姉がテニスをする姿を見て、興味を持ったところから始まる。兄と一緒にやってみたら楽しくて、のめりこんだ。実は父も大学時代に全日本学生テニス選手権大会で優勝した名プレーヤーだったけれど、その話を聞かされることはなかったという。その頃はどんな子供だったんだろう?

「人と違うことをするのが好きな子でしたね。目立つのも好きで。根本に、“周りの人に喜んでほしい”というのがあって、こうしたら喜んでもらえるかな、元気になってもらえるかな、と考えていました」

 わんぱくで快活な少年は、やがてテニスに本格的に向き合い始める。名門テニスクラブ「桜田倶楽部」に通い、12歳で海外を経験。慶應義塾中等部のときには、全国中学生テニス選手権大会で優勝を果たした。そして高等部へ進学後、大きな決断をする。高校テニス界に名を轟かせる福岡の柳川高校に、家族と離れ、単身乗り込むと決めたのだ。まだ高校生なのにすごい決断! でも、そこには斬新な思考があった。

「僕はちょっと捉え方が違って、どちらかというと楽なほうを選んだんです。柳川高校というのはすごく厳しい学校で、厳しいぶん、生徒はやらざるを得ない。自分をそういう場に置けば、仮に甘さがあったとしても、鬼コーチがいるからやらざるを得ないわけですよ。つまり自動的にうまくなる」

 なるほど、無謀な挑戦のように見えるけれど、松岡さんは終始冷静だったのか。

「そうですね。実は無謀なチャレンジをしたことはないんです。どのくらい失敗しそうか、成功率はどれくらいかを自分なりに調べ上げて、7割成功しないならやらないと決めています。マルかバツかの選択をしない。最悪うまくいかなくても道筋はちゃんと残しておきます。プロになったときも、2年間鳴かず飛ばずだったら大学に戻る予定でしたから」

 10代でその境地に辿り着くとは。そして18歳でアメリカのタンパに留学を決め、19歳でプロになった。だから二十歳の頃は、アメリカを拠点にしながら世界を飛び回っていたんだそうだ。

「1年のうち10か月は海外にいて、毎週世界中を回っていました。二十歳の誕生日も、確かヨーロッパで試合でした。二十歳になったってことが、あんまり僕にとって大きなものはなくて。なぜなら19でプロになってるので、自分でお金を稼がなきゃいけないし、自立しなきゃいけなかった。それに、プロになっても、成功して食べていけるっていうのは限られた人だけ。9割以上の人が2~3年でやめてしまうんじゃないですか。その後、大学に戻る人もいるし、テニスコーチになる人もいる。生活できないんですよ。それが23、24歳くらいで決まっていくっていう感じですね」

冒頭の話に照らせば、現役でテニスができる時間はわずか10年ほどしかない。プロになった途端にリミットが見えるとは、スポーツの世界はなんとも過酷だ。さらに、プロになっても成功するかは未知数。アスリートたちがストイックに自らを鍛錬するのは、置かれた環境と立場を常に意識しているからなんだ。


AT THE AGE OF 20


19歳の時の全豪オープン予選での写真。初々しい松岡さんの隣にいるのは、恩師のボブ・ブレットコーチ。元世界ナンバーワンのボリス・ベッカーなど、世界のトッププレーヤーを数多く指導してきた名伯楽だ。ヨーロッパ遠征を終えた18歳の松岡さんは、来日中のボブさんと出会い、「アメリカに来い」の一言で渡米を決意。関係は引退後も続き、松岡さんが始めたジュニアを育成する強化プログラム「修造チャレンジ」に参加。20年以上におよび手厚くサポートをしてくれた。

若者よ。驚きの目、
ポップ・アイを持つべし!

 学生時代からめざましい活躍を見せる松岡さんの姿を、日本のマスコミは追った。世界に挑めば、その結果をスポーツニュースはいち早く報じた。しかし当の本人はひたすらテニスに集中していた。

「日本が沸いてるなんて実感はなかったです。僕からしたら注目されてるなんて意識は全然。それより、ただいいテニスをしようと思ってました。そのために、失敗したら振り返ってノートに書くんです」

 必勝のためには、まずは己を知るべし。パソコンに打ち込むのではなく、手書きというのが大事なんだそうだ。

「心の声を言語化させて、何がよかったのか、いけなかったのか、自分の考え方をまとめた説明書を作り上げる作業が必要でした。それがあれば、なんとなく動くことがなくなっていくんです。松岡修造というプレーヤーが、相手とどう向き合えばいいか。試合のたびにデータを当てはめていく。こういうことを、感性だけでパパッと計算できる人は天才なんですよ。僕はしっかり書かないとダメでした。手を動かして書いて読み返すと、まるで鏡で自分を見ているような感覚になるんです」

 そうした日々の積み重ねによって、松岡さんは27歳のとき、ウィンブルドンベスト8という輝かしい記録を残す。その後、31歳で現役を卒業したときは、後進の育成に力を入れようと考えていたという。

「ジュニアの強化と、応援をしたいと思っていました。テニスの楽しさをより広く伝えられたらと思って、テレビの世界に入っていったんです。すると、流れがスムーズに変わっていきましたね。錦織圭さん、北島康介さん、羽生結弦さん、浅田真央さん、大坂なおみさん。日本から世界に羽ばたくトップスターの活躍を、リポートしたり取材したりする機会をいただけた。こんなラッキーな人はいないと思います」

 世界を知っているからこそ、戦う人たちの苦悩や葛藤、喜びがわかる。だから、テレビの向こうの松岡さんは時にははじけるように快活で、時には苦しそうに顔を歪める。スポーツに詳しくない視聴者たちを沸かせ、引き込んでくれるのは、松岡さんの真摯で嘘がない声の力だ。

「今の仕事は強さも弱さも関係ないんです。たったひとりの勝負と違って、みんなで挑むことだから。どっちが向いているかというと、今のほうが断然楽しいんです。僕はテニスで成功したように見えているかもしれないですが、終わってからのほうが成功だと思ってるんですよ。だって、25年間近く『くいしん坊!万才』を続けられてますし、スポンサーさんとのご縁も長く続いている。それってすごくありがたいことですし、人と人との付き合いや絆があってこそなんですよね。だから20代で結果が出なくても焦らなくていいよって、僕はそう思います」

 最後に、松岡さんから特大のエールを。

「20代で大事なのは、まさに〝POPEYE〟だと思います。ポパイじゃなくて、ポップ・アイ。つまり驚きの目です。こんなチャレンジってあるんだ! こんなチャンスもあるんだ! そんなふうに、目をまん丸くして驚いちゃうくらい、身の回りに新鮮さを見つけることが必要なんです。ポップ・アイを持てば、必ず出合える。ただ反対に、ぼんやり・アイっていうんですかね。そんな目ではチャンスを見過ごしてしまう。もったいな過ぎます。ぱっちり目を開いて、好奇心のポップ・アイで世界を見てください。君ならきっとできる!」

プロフィール

松岡修造

まつおか・しゅうぞう|1967年、東京都生まれ。日本テニス協会強化育成本部副本部長。強化合宿「修造チャレンジ」主宰。『報道ステーション』『サンデーLIVE!!』『ワイド!スクランブル』(すべてテレビ朝日系)、『くいしん坊!万才』(フジテレビ系)などに出演。

Instagram
https://www.instagram.com/shuzo_dekiru/

取材メモ

松岡さんは海外暮らしが長く、20代の思い出の場所は数少ない。挙げてくれたのは、雨の日によく練習で使ったという品川プリンスホテル併設の高輪テニスセンター。松岡さん、やっぱりコートがとても似合う。取材中「どんな現場でも、僕はめちゃくちゃ提案するんです。9割9分却下されても全然OK。そこから斬新なものが生まれるかもしれないから」と話していたとおり、椅子をコートに運び「こう撮るのは?」と構図を考えてくれた。流石!