カルチャー
土門拳と、続・写真「薄い」問題
文・村上由鶴
2023年5月31日
text: Yuzu Murakami
土門拳(1909-1990)といえば、日本の写真の歴史に「リアリズム写真」という方向性をつくった最重要人物のひとりです。
彼を特徴づけたのは、「絶対非演出の絶対スナップ」という考え方。
人為的な演出をしないで「物そのもの」を「あるがままに」撮影した『筑豊のこどもたち』、『江東のこども』などの作品には彼のその考え方があらわれています。
そんな土門の「自分の周囲の生活的なモチーフから出発するのが、最も健康で正しいのである。自分のリアリズムの写真は、絶対非演出を条件とする」という思想は、さすがにもう忘れられたかな?と思いきや不死鳥のように蘇えって、幾度も、幅広い世代の写真家たちにプロ/アマ問わず影響を与えているように思います。
このスーパーマッチョな写真観には、なにかブラックホールのような吸引力があって、カメラを手にする人はなぜかついつい引き込まれてしまうのかなと思うほどです。
さて、つい先日まで東京都写真美術館では土門拳の展覧会「古寺巡礼」が行われていました。
実は、土門のこの展覧会でも、前回の記事で書いたヴォルフガング・ティルマンスのそれとはまた違う「写真の薄さ」を感じました(実は、「土門拳の展示を見て写真薄いな〜と思った」という友人からのタレコミがあったのです)。
土門の「古寺巡礼」シリーズは、彼のライフワークで代表作のひとつ。
重厚すぎるディティール萌え的な撮影のスタイルを特徴としているこのシリーズでは、「絶対非演出の絶対スナップ」を宣言した人の写真とは思えないような、撮り手の強烈な個性が炸裂しています(実際、土門は後にこの「絶対非演出の絶対スナップ」の考え方が「大本営発表的な」でたらめであったと振り返っています)。
重要文化財や国宝、世界遺産を含む古寺と、そこにおわします仏像の数々をとらえた写真は、例えば「重要文化財カタログ」とかに載せられるタイプのものではなく、土門流の濃いめの味付けがなされています。展示室内は、ぎっしりと写真が並んでいて、隣り合った写真同士がかなり近く、これによる圧の強さも印象的でした。
が、わたしはどうも、その展示の方法が気になってしまいます。
アルミか何かのパネルに貼られた写真と、額縁に入った写真がまぜこぜになっていたのは、おそらく「大人の都合」的なものなのでしょうが、当然、額縁の写真と、額縁のない写真が隣り合っていれば、その違い=写真の薄さのあらわれがやっぱり気になります。
額縁は、その写真の薄さを隠すためである、と前回述べたように、額縁が持つ「薄さからくる脆弱さを隠す力」は強力です。
額縁に入った写真と隣り合った数ミリの薄いパネルに貼られた写真を見ると、薄いパネルの薄い表層である、ということを意識せずにはいられません。
当の写真自体は、クローズアップで撮られた仏像や古寺のディティールをとらえ、いずれもその歴史を感じさせる「物そのもの」の質感を意地悪なほどに再現しています。
仏像や如来像の表情も、時には美人に撮られたりもしていますが、土門が述べる通り「醜怪」さが強調されているものも少なくありません。仏像の顔にしても、頬もおでこも半分まで(つまり目と鼻と口だけ)しか写らないような極端なクローズアップの写真も含まれます。
これがとにかく重厚で、この「重厚」という言葉の通り、イメージが仏像や古寺の、そして、そこにあったであろう空気の、重みと厚みをはっきりと感じさせるのです。
もちろんそれだけで見応え十分、なのですが、額縁に入れられている写真があり、その真横に剥き出しの写真があるのでは、やはり写真自体の「ものとして存在感」(っていうより「格」)の違いが気になっちゃうのです。
前回、例として示したティルマンスが展示室内のインスタレーションとして彼の意図を表現していたのに対して、やはり土門拳は、どちらかと言えば、雑誌面上の、薄い紙の上で写真を発表してきた写真家です。
つまり、土門の意図は、二次元の写真のなかにこそ充満しています。
土門が「絶対非演出絶対スナップ」と述べたのも、そして、「江東のこども」などの写真を発表してきたのも、カメラ雑誌/写真雑誌だったことが示すように、日本の写真の歴史、というより写真観を築いてきたのはこうした雑誌たちでした。カメラ雑誌には大きな影響力があったのです。
こうした雑誌はいまやほとんど絶滅している状況ですが、やはりこの、すでに決まりきった「薄い紙」というフォーマットのなかでなされてきた論争や表現のぶつかり合いのなかにこそ土門の写真はあったのだと、展覧会場に三次元の物体として現れた写真たちが物語っていました。土門がすでに亡くなっている作家であることを差し引いても、二次元の写真に全力をぶつける=三次元空間への意図のなさを、わたしは写真の薄さとして感じたのかもしれません。
もちろん、ドイツ出身の「Photographer」と、日本の「写真家」が同じ写真観を持っていないことは当然ですし、二次元の写真にすべてをぶつけているのは土門だけではありません。日本の写真界には、この雑誌文化のなかで培われた独特の写真観があり、「写真の薄さ」はむしろ、その写真観が目指した純粋な写真表現の追求のあらわれとも言えるかもしれません。
写真が「薄い」と思わせる時、それはやはり写真の、他のどの芸術とも違う特異な存在の仕方が際立った時ではないかと思います。
だからこそ、それが良いものであれ悪いものであれ、写真作品の「薄い写真の脆弱さとの付き合い方」は、ひとつ、写真を見るときの目のつけどころになるのではないでしょうか。
プロフィール
村上由鶴
むらかみ・ゆづ|1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。
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