ライフスタイル
【#4】タクシーの客
2021年5月3日
text: Jyunji Inagawa
しばらく振りに、
仲間うちの飲み会があったりして、親しい顔ぶれが揃うと、
年甲斐もなくすっかり盛り上がって、
気が付けばもう夜中の2時を回ってる。
何だか酔いも醒めてきて、じゃあ解散にしようかという事になった。
店を出ると、都合よく、すぐにタクシーが拾えたんで乗り込んで、
「哲学堂までお願いします」
と行先を告げると、
「はい。承知しました。
どの道で行きましょうか?」
と、実に気持のいい返事がかえってきた。
「飯田橋を抜けて、
高速に沿って、江戸川橋を経由して、
都電の早稲田の停留所を通って、新目白を・・・」
道順を告げると、
「はい。かしこまりましたァ」
タクシーをスタートさせた。
(珍しく、礼儀正しい、気分のいい運転手さんだなァ)
と思いながら、
「もうこんな時間だから、どの道で行っても、そう変らないんで、
行きやすい道で行って下さって結構ですよ。
家に帰るだけなんで急いでませんから」
そう言うと、
「助かります。
私、こっちへきてまだそう経ってないんですよ。
以前は九州でタクシーの運転手してましてね」
と言うもんだから、つい、
「また何で、九州からこっちにきたんです?」
聞くともなく調子を合わせたんですがね。
すると、
「家の事情もあったんですけどね、
九州で運転手するのが嫌になっちゃいましてね。
もう四・・・五年前の事になりますかねェ・・・・」
と言って、話し始めました。
それは、雨の降る夏の夜で、タクシーを流していると、
いつになく、次から次へとお客が拾えて、
ひとり降ろして少し行くと、またお客が拾えるといった具合で、
すっかり気をよくしてたそうです。
次のお客を求めて雨の中を流していると、
ヘッドライトの照らす前方に、
こっちに向かって手を上げている人影を見付けたんで、
チカッとライトで合図を送って、タクシーを寄せてゆくと、
それはショルダーバッグを下げて、膝近くまでの白い短パン姿、
長髪の三十代半ばくらいの、若い男で、
傘も持たずに雨に濡れて立っていた。
ドアを開くと、
「どうも」
と言いながら、乗り込んで来て、
「このまま、まっすぐに行って下さい。
できれば急いでもらえますか・・時間が無いんですよ」
「はい!」
と返事をして、タクシーをスタートさせた。
時刻は夜の10時を回った頃で、
雨の降る暗い道路の前方を、ヘッドライトが照らしてゆく。
と、この若い男の客がひっきりなしに、
前を見たり腕時計を見たりしているんで、
(ずいぶん急いでるんだなァ・・)
と思った。
様子からするとマスコミ関係の仕事でもしているような感じがする。
「ずいぶんお急ぎのようですね」
そう声を掛けると、
「ええ、もう時間が無いんですよ」
と返事がかえってきた。
タクシーは、なおも雨の中を走り続けてゆく。
と、やがて前方に交差点が見えて、黄色の信号がついている。
タクシーが、その交差点に差し掛る寸前で赤になったんで、
停止すると、
「あっ、ここでいいです」
と言うので、
「え?いいんですか?
雨、降ってますよ」
そう聞き返すと
「すぐそこですから」
と言いながら、料金を支払った。
お釣りを出そうとすると、
「ああ、いいですよ!」
そう言って、レシートだけ受け取ると、
ドアが開くや、雨の中へ飛び出して行って、
夜の闇に消えた。
と、その時、
タクシーの前を4トンの冷凍車が、水しぶきを上げて突っ切って行った。
キィィィー・・・ドン!
けたたましく急ブレーキが鳴って、
何かが、ぶち当たるような鈍い音がした。
(あっ。やっちまったな・・)
と思った。
辺りには他に車も無いし、
事故を放っておくわけにもいかないんで、
タクシーを道路の傍に寄せて停めて、
雨の中を小走りに、音のした方へ向うと、
今、目の前を突っ切って行った、
冷凍車が停まっていた。
運転席から、
大声で叫びながら、運転手が降りてくるところで、
ふっと視線を移すと、冷凍車の下から、
白い短パンをはいた下半身と、ショルダーバッグがのぞいている。
流れ出た血が雨に濡れた路面をみるみる赤く染めてゆく。
(えっ、
この白い短パンにショルダーバッグ・・この人、
自分がここまで乗せてきて、
たった今、降ろしたお客さんだ!)
もうビックリして、
すぐに救急車と警察に通報した。
上半身は車体の下に隠れている。
恐らく、かなりの重傷を負っているに違いない。
何度も声を掛けてみたんですが、
全く応答が無いし、呻き声も息遣いも聞こえてこない。
やがて夜の闇の向こうから、
サイレンが次第に近付いてきた。
この若い男の人は、
ほとんど即死であったろうという事だった。
この人はいったい、
何を急いでいたんだろう。
「もう時間が無いんですよ」
と言っていたけれど、
確かにこの人にはもう残された時間が無かったんですね。
そして、
「すぐそこですから」
と言った、
正にそのすぐそこで亡くなったんですよね。
妙な言葉の偶然だなと思った。
ただ運転手さんにしてみれば、
そこでタクシーを停めなければ、
そして、あと少しドアを開けるのが遅かったら、
この人は、冷凍車をやりすごして、
死なずに済んだかも知れないし、
そもそも自分が、あのお客を拾わなければ、
こんな事にはならなかったのに、
と思うと自責の念に駆られたそうです。
この出来事があってから、
ひと月程経った雨の夜、
お客を降ろして、また、次のお客を求めて流しているうちに、
知らず知らずのうちに、
あの若い男の客を拾った辺りを走っている事に気が付いた。
(確かこの辺だったよなァ・・
あの晩もこんな雨が降ってたなァ・・・
時刻もちょうど今時分で、嫌だなァ。
早くここから離れよう)
と思った。
周囲は闇に包まれて、
雨に濡れた路面を、ヘッドライトが照らし出して行く。
キィーシャキッキィーシャキッ
フロントウィンドウをワイパーが往復している。
と、ヘッドライトの照らす前方に手を上げて、
タクシーを待っている人影が目に入った。
(ああ、このお客を拾って、
とっととこの場を後にしよう)
速度を落して、タクシーを寄せてゆくと、
ヘッドライトにその人影が照らし出された。
その途端、
(ううーっ!)
喉の奥で、声にならない悲鳴を上げた。
なんと、その人物は、
ショルダーバッグを肩から下げて、膝までの白の短パン姿に、
長い髪をぐっしょり濡らして雨の中に立っていた。
(・・あの男だ!)
それは、ひと月前、
この場所で乗せた、
あの若い男だった。
全身から血の気が引いて、
ガタガタと震える膝でとっさにアクセルを踏み込んで、
その場を離れた。
恐る恐る、
チラッとバックミラーに目をやると、
男の姿は無かったそうです。
果して自分が見たものは、
あの男の幽霊だったんだろうか、
それとも自分の罪の意識が幻覚を見せたんでしょうかね。
「どちらにしても、
この土地でタクシーの運転手をするのが恐くなって、
こっちに来たんですよ」
と言っていましたよ。
終わり
プロフィール
稲川淳二
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