ライフスタイル
【#3】姉妹のマンション
2021年4月26日
text: Jyunji Inagawa
瀬戸さんという人が、仕事の都合でしばらく地方都市に単身赴任することになって、
マンションでの一人暮らしが始まった。
慣れない土地で、新しい職場で、ましてや、周りの人はまったく付き合いのない人達ばかりです。
それに、責任のある立場ですから。
これはかなり体も神経も参ってくるわけですよね。
そんな具合ですから会社から帰ると、風呂場でひと風呂浴びて、汗を流して、
そのまんま、蒲団にゴローンと横になり、寝てしまう。
そんな毎日が続いてたわけです。
そんなときなんですが、たまに、夜中に部屋の中を人が動き回るような気配を感じる事がある。
ただ、不思議なことに、疲れていて目は開かないし、体は動かないんですが、
どうやら神経の方が逆に起きてしまうらしいんです。
で、時によっては、苦しそうなうめき声がしたりする。
それが、どうも女の人のようなんで、瀬戸さんは、
(たぶん、神経が疲れていて、幻聴を起すんだろう)
と思っていたんですね。
そんなある日の事なんですが、
会社にひとり残って仕事をしていて、遅くなったんで、
ま、このまま帰っても、単身赴任ですから、待ってる者もいないんで、
(どこかで、一杯ひっかけていこうかなぁ)
と、帰りがけに居酒屋によって、そこで一杯やりながら、マスターと話をするうちに、
これがついつい話し込んでしまっていい時間になっちゃった。
多少酔って、マンションに帰ってくると、エレベーターが最上階で止まってた。
自分の部屋は二階だったんで、エレベーターを待つのが、めんどくさい。
それで、そのまま階段を、
トントントントン、
上がって行くと、階段に点々と、雫の跡がついてる。
二階に上がると。
通路の床にも、点々と、雫の跡があった。
瀬戸さんが自分の部屋の、玄関のドアを開けようとして、
(あれ?)
と思った。
なんと雫の跡は、自分の部屋の玄関まで、続いてる。
(これは何の雫だろう—?
なんで自分の部屋にまで、続いてるんだろう?)
全く自分には覚えがないんで、なんだか薄気味悪い。
(もしや、部屋に何かいるんじゃないだろうか?)
ドアに鍵を差し込んで、ゆっくりとノブを回して、静かに開けた。
真っ暗な室内の様子を、しばらくうかがってから、壁の明かりのスイッチを入れたんですが、
部屋の中は、いつもと変わった様子はない。
そして蒲団に横になると、眠てしまった。
翌朝、出勤するんで、玄関のドアを開けて通路に出ると、
昨夜の雫の乾いた跡が、まだかすかに残っていた。
(あぁそうだった。しかしこれ、なんだろう—。
ずーっと下から続いてるし、留守に、誰か訪ねてきたんだろうか?)
気にはなっているんですが、毎日、会社で忙しく仕事に追われるうちに、
いつの間にか忘れてしまうんですよね。
そんな事があってから、ひと月近くたった朝、いつものようにドアを開けて通路に出ると、
(あれ!?)
床に雫の跡が、またついてるのを見付けた。
乾いて薄くはなっているんですが、よーく見ると、
玄関から点々と通路に続いているのがわかった。
(なんだろこれ?
昨日、会社から帰ってきた時には、通路にこんな跡はなかったのに。
誰かが夜中にきて、自分の部屋の様子でもうかがってるのかなぁ—)
一度ならず、二度ともなると気持が悪い。
瀬戸さん、普段は縁起を担ぐだとか、迷信といったものには、とんと興味のない人なんですが、
さすがに地元の神社へ行って、お札をもらってきた。
魔除けのお札で、玄関のドアの裏に、ペタっと貼ったわけだ。
そうしておいて、自分が寝ている、一番奥の和室の襖を開けたままにして、
玄関の方に、頭を向けて寝る格好をすると、ダイニングキッチンのドアを開けておけば、廊下のつきあたりが玄関ですから。
顔を上げれば、ちょうど自分の目の位置に、ドアの裏のお札が見えるわけだ。
こうすると、なんとなく安心した。
実際、それから何も起こらなかったんですね。
そんなことがあってから、しばらくして、奥さんが一週間程いる予定でやってきた。
部屋の掃除に、台所、風呂場にトイレの掃除に、片付けと、
洗濯と身の回りのいっさいをしてくれる。
瀬戸さん、久しぶりに家庭の味を、味わうことができたわけです。
日曜日、珍しく、部屋で瀬戸さんがくつろいでいると、
買い物に行った奥さんが、食料品やら日用品を抱えて帰ってきて、それを座敷に置くと、
「ねー、今、聞いてきた話なんだけど、このマンションじゃないかしらねー」
と、買い物先で耳にした話を、しゃべり始めた。
「以前にねぇ、若い姉妹が住んでてね、
この、お姉さんの方がね、マンションの近くの路上で、刺し殺されたんだって。
刺した男っていうのが、妹さんの方と以前、付き合ってた男でね、
その日、お姉さんの方は、会社の祝賀会があって、妹の服を借りて行ったっていうのね。
でも、この日は、夜から雨になって、傘をさして、帰ってきたんだって。
妹の服借りて着れるくらいだから、体つきも似てたんでしょうね。
あいにくの雨で、傘をさしてるから顔は見えないし、
妹さんを待ち伏せしていた男が、間違えて刺したんだって。
それがね、首をザックリと深く刺したもんだから、首のところから頭がねじ切れそうになっててね、
そこから噴き出した血で、服が真っ赤に染まっていたそうよ。
このお姉さんって人は、気丈な人でね、
刺されながら、自分の部屋まで行って、そこから自分で警察に通報したんだって。
救急隊が部屋に行ったときは、もう事切れていたそうだけど、
刺された現場は凄い血でね、首からしたたり落ちた血が、ポタポタポタポタとずーっと続いていて、
救急隊の人が、その跡をついてったら部屋まで行けたっていうんだから。
こんなに血を流したんじゃ、助からないだろうって思ったって」
と聞くとも無く、話を聞かされて、
(なんだか、嫌な話聞いちゃったなぁ、気分悪いなぁ—)
と思った。
ま、そんなことがあって、一週間が過ぎて、奥さんは帰っていった。
そして、瀬戸さんのひとり暮らしの生活がまた始まった。
そんなある日、会社の創業25周年の祝賀会があった。
瀬戸さんも管理職のひとりですから、壇上に上がって列席者に挨拶をしました。
式が一通り終わると、飲み会になって、
酒やビールを飲みながら、あっちこっちでお喋りが始まった。
と、近くで多少酔いが回った、古株の女子社員が、
若い女の子を集めて、大きな声で話してるのが耳に入ってきた。
「そうよー、5年前の祝賀会でさぁ、
経理の女の子がね、帰りに自分のマンションの近くで男に刺し殺されてねぇ。
それも、首を深-く刺されてね。
頭がちぎれそうだったって言うのよねー」
って話をしている。
(ん?その話って、女房の言ってたのと同じ話かなぁ。
だとすると死んだ女っていうのは、ウチの会社の女子社員だったのかぁ。)
と思った。
飲み会が終わって、祝賀会がお開きになると、
瀬戸さんが単身赴任だってことはみんな知ってますから、二次会に誘われた。
で、結局、次から次へと付き合わされてしまって、
やっと解放されたときには、もう夜中近くになっていた。
酔いをさましながら、マンションに向かって歩いていると、
静まり返った、暗い夜道、カッコッカッコッと、ハイヒールの靴音がして、
前方の闇の中を、女がひとり歩いてゆくのが見えた。
(仕事帰りだろうか?こんな遅い時刻に、女がたったひとりで歩いてるなんて、珍しいなー。
何か事情でもあるのかな?)
などと思いをめぐらせながら—-、自分が歩いている。
その前を、女が歩いてく。
瀬戸さんが、ちょうど彼女のあとを、ついてゆくような格好になってるわけですよねぇ。
だんだん、だんだんと、その距離が狭まってきた。
この先には、自分のマンションがあるだけなんで、どうやら前を歩いてゆく彼女も、同じマンションの住人らしい。
(夜道で声を掛けたりしたら、むこうが驚くだろうから、
マンションに着いたあたりで、追い付いて挨拶でもしてみるか)
と思った。
次第次第に距離が近づいてくると、
(ん?!)
前を行く彼女が、コウモリ傘をさしている。
(雨も降ってないのに、なんで、傘さして歩いてんだろう—-?
変な女だなー—-)
と思いながら。
見るともなく、女の後ろ姿に視線を向けて、あとからついてゆくと、
(あれ?)
と思った。
女の傘から、ポタポタポタポタ、雫が落ちている。
(え?!どうなってるんだ?
なんで雫がたれてるんだろう?!)
と、不思議に思った。
ま、こっちは酔ってますからね、目の錯覚だろうかと、
後ろから近付いてゆきながら、よーく見ると—-、
傘から雫が落ちてるんじゃない。
なんと雫は傘の中から、ポタポタポタポタと落ちている、
(ええっ!あれなんだぁ?)
妙に思って、下を見ると、
街灯の明かりに照らされた路面に、
ポタッポタッポタッポタッポタッポタッと、
赤い雫の跡が続いている。
(—これ血じゃないか?!)
と思った途端、ブルッと体が震えた。
と同時にフッと奥さんから聞いた話が頭をよぎった。
(ちょっとまてよ—)
今、自分の前を、傘をさして歩いて行く女。
その傘で、隠れて見えていない肩から上の状況が、フーッと浮かんできた。
首を深々と刺され、今にもちぎれて落ちそうになっている頭。
ザックリと開いた傷口から吹き出す、おびただしい鮮血が、
傘の内側を真っ赤に染めて、ポタポタとしたたり落ちている—–。
(おい、よせよ。
じゃ、今、自分の前を歩いてるこの女は、あの例の女なのか?
ということは、こいつは殺された女の幽霊なのか?!
生きてる女じゃないのか?どうしよう—–)
ここまで来て、今更戻れないし、他に行くあても無い。
やがてマンションの前に来ると、女がピタッと足を止めたんで、瀬戸さんも立ち止った。
女がゆっくりと振り向いてきた。
こうなったら、女の横を走ってすり抜けて、マンションに飛び込もうか、
それとも、女を先に行かせてから—–などと思ったんですが、
だんだんだんだんと、女が体の向きを、こっちに向けてくるんで、
どうする事もできずに自分は、固まったまま、ただ、黙ーって、そこに立っているしかない。
常夜灯の明かりに照らされた笠の下から、長い黒髪がのぞいて、
やがて服の胸から肩にかけて、真っ赤な血に染まってるのが見えた。
呆然と立ちすくんでいると、女が静かに傘を持ち上げた。
その途端、
(う゛あああぁぁぁ!)
咽の奥で、声にならない悲鳴を上げて、瀬戸さんが、女の脇を走り抜けた。
その時、後ろから女の声がしたような気がした。
タントンタントンタントンタントン
ハァハァハァと、
一階からそのまま、一気に階段を駆け上がっていった。
トントントントントン
靴音がコンクリートの壁に反響している。
二階に上がると。
通路を走って、自宅のドアの前まで来た。
ポケットの鍵を探すのがまどろっこしい。
慌てているんで、鍵穴に鍵がなかなか差し込めない。
で、どうにか入って、鍵が開くと、ノブを掴んでグゥンと回して急いで引いて、
玄関に飛び込むと、扉をドーンと閉めた。
明かりをつけて、鍵を掛けて、ふーっと深い息をついた。
まだ呼吸が荒い。
心臓がドックン、ドックン鳴っている。
(あーあぁ、あーまいった。
嫌なもん見ちゃったなぁ—。
いや、もう寝ちゃおう。
寝ちゃえばなんにも恐くなんかない。
明日になれば、すべて終わってんだから。
もう寝よう)
部屋に入って、蒲団をひくと、上着を脱いで、そのまま蒲団にドスーンとしりもちをついた。
しばらくの間があって、気が付けば、酔いもすっかりさめてしまって頭がスッキリとしてきた。
多少、落着きを取り戻すと、今度は、別の事が頭に浮かんできた。
それは、夜寝ていて、時々、部屋の中を這いずり回ってるような人の気配を感じることがあるのと、
女のうめき声のようなものを聞いたことがある事。
自分では、何かの音が、そう聞こえるんだろう、と思っていたんですが、
それと玄関のドアの前までずーっと続いていたあの雫の跡が思い出され、
(もしや、例の姉妹が住んでいた部屋っていうのは、この部屋じゃないだろうか?)
と思った。
でも、すぐに打ち消した。
(いや、そんなことはない。そりゃあ違うさ)
と自分に思い込ませようとしたんですが、でも、そう思えば辻褄が合うんで、
急に怖くなってきた。
(おい、勘弁してくれよ)
と思いながら、思わず玄関に視線がいった。
(あれ?なんかおかしい。
あれっ?!ない。
ドアに貼った、あのお札がなくなってる。
え?どうしたんだろう?)
もしかすると、奥さんが玄関を掃除していて、
何かのはずみで、お札が落ちたのを、気づかないで、掃いて捨てちゃたのかもしれない。
それはありうるわけだ。
(どうしよう、お札がない。
女の幽霊は近くまではきてるだろうし—-)
今にも、通路からハイヒールの靴音が近づいてきて、
玄関のドアが突然、開くんじゃないだろうか?
今、外へ飛び出していったら、通路を這いずってくる、血塗れの幽霊と出くわしてしまう。
(どうしよう、逃げ場がない)
で、咄嗟に掛け蒲団を、頭からかぶると、そのまま横になった。
うつ伏せの恰好で、掛け蒲団をズーッと頭の先まで出して、
で、枕に顔を隠すようにうずめて、掛け蒲団と枕の間の隙間から、
目だけ出してジーッと玄関を覗いた。
(もしかすると、女の幽霊は、
もう玄関のドアの向こう側に立っているかもしれない。
今にも玄関が開くかもしれない—)
こめかみを冷汗がつたっていく。
体中が総毛立って硬直している。
耳をそばだてて気配をうかがう—-、
辺りはただシーンとして静寂につつまれている。
ハイヒールの音も聞こえてこない。
聞こえてこない。
全く何も聞こえてこない。
次の瞬間にでも、ドアが開くんじゃないだろうかと、
恐怖をこらえてジーッと見詰めているんですが開く様子がない。
(—-開かない。ドアが開かない)
噴き出した汗で、全身がジットリと濡れてる。
枕をつかむ指先が、かすかに震えている。
ハァハァハァ
蒲団の中で、自分の息遣いだけが聞こえる。
時間が経っていく。
でも一向に靴音もしなければ、ドアが開くような様子もない。
(—-開かない。開かない)
そうするうちに、
(やっぱり部屋が違うんだ。
この部屋じゃなかったんだ。
他の部屋だったんだ)
そう思うようになった。
(そうだよ、もうこないんだよ。
なんだ、そうだ、もうこないんだ。
あーよかった助かった。
ハァー—そうだよ、ここじゃないんだよ。
ハァアー、ハー、あーバカ見ちゃった)
長い時間、同じ格好で、じっとうつぶせていたんで、
寝返りをうとうと、頭の向きを変えようとしたその時、
掛け蒲団と枕の、わずかな隙間から、
血に染まった、女の逆さの顔が、ぐーっと、のぞき込んできたんです。
(ウワーッ!)
瀬戸さんの悲鳴が上がった。
女の幽霊は、とっくに部屋の中にいたんですねぇ。
終わり
プロフィール
稲川淳二
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