カルチャー
生きた酵母を“シェアする”、北欧のパン文化に触れて。
エデュケーション・クラブVol.2 / 春のパン作り
家でパンを焼きたい。お米を炊くのと同じくらいのテンションで、気負わずに。何でもない日は自分の手でこねて、焼いて、部屋中に漂うふんわりした香りを味わいたい。余ったら外出時のおやつにしたり、友達にお裾分けしたり。そんなパンを作る暮らしに憧れる。
ただ、いざ作り方を想像してみると、途端に霧がかかりはしないか。
サワードウやバゲットなど「ハード系」、食パンやバターロールなど「ソフト系」。他にも菓子パンや総菜パンもある。生地を膨らませるために欠かせない酵母も「イースト」と「スターター」にわかれているようだ。何より素人には発酵という2文字の壁が相当高い。そこは専門店の聖域のようでとにかく足を踏み入れづらい、ように感じる。そんなふうに右も左もわからなかった。以前取材したことのある広尾の『BRØD』へ、思い切って相談してみるまでは。
「なにも難しくないわ! 基本となるカントリーブレッドから覚えていけばよくて、材料は水と小麦粉と塩だけ。種となるサワードウ種もそれらを発酵させて出来たものです(イーストの代わりにパン生地を膨らませる天然酵母のことでスターターとも言う)。ゼロから作っても2週間あれば、誰でも美味しく焼けますよ」
店主のクリスティーナさんは朗らかな顔でそう微笑む。デンマーク発の伝統的なロブロをはじめ、サワードウブレッドやカントリーブレッドなど、身体が喜ぶオーガニックなパンを作るベーカーだ(パンを作るようになった経緯はこちらの記事を見てみて)。自ら作るようになって今年で6年目、続けてこう話す。
「それにカントリーブレッドを食べ続けていると、身体が喜んでいることを実感するはず。食後も十分な満足感が続くんです。長時間発酵することで、本来は吸収されにくい鉄や亜鉛といったミネラルを身体が吸収しやすくなるから。もっと言うと、パンのでんぷんの消化のされ方が変わり、糖がゆっくりと消化されるため、血糖値の上昇も緩やか。この長い発酵の過程で、サワードウ特有の奥行きのある風味も生まれます」
カントリーブレッドはお店のメイン商品。有機小麦、酵母、水、塩のみで出来上がる素朴なハード系の一つで、もっちりとした弾力の裏に潜む柔らかな酸味にじわじわと脳天が安堵していくこと間違いなし。
なるほど、カントリーブレッドは身体を養い、日々の活力を補うための「家庭料理」に近いのかもしれない。ふくよかな香りが充満する店内を回ると、手書きのメニューや冷蔵庫にサインペンで直接記したメモ、生地を成形したり発酵させるときに使うカゴが端正に佇み、きちんと目の届く範囲で真摯にパンと向き合っていることが伝わってくる。聞けば、パンが主食として根付く慣れ親しんだデンマークでは、種(サワードウ種)を分け合うカルチャーもあるのだとか。
「ここ15年ほどで、パン職人同士や友人との間で種を分け合う文化が少しずつ広がってきました。その流れを後押しした人物の一人が、レストラン『Noma』の創設者の一人でもあるクラウス・マイヤーです。彼は工業的に大量生産されたパンに疑問を投げかけ、より自然で職人的なパンづくりの大切さを広く伝えてきました。ただ実際には、こうした考え方の背景にはもっと長い歴史があります。70年代にはすでに、小規模農家たちが協力しながら、自然に近い農法で穀物を育てる取り組みが始まっていました。そうした流れが、今のサワードウやクラフトベーカリーの文化にもつながっていると思います」
農業国である東欧モルドバで生まれたクリスティーナさんは、自然と農業に囲まれた環境で育った。だから、材料も可能な限りオーガニックなものを使うことを大切にする。とはいえ、日本におけるその小麦粉はまだ流通量がとても少なく、道のりは険しい。それでも、これまでさまざまな種類の粉を研究し、身近なベーカーと意見交換をしながら、テストを繰り返してきた。
「国産のものだけで安定してパンを焼くのはまだ難しいので、ベースの小麦粉はアメリカ産を使用しています。ただ、全粒粉は福岡県の八女市で生産する『田中製粉』の「みなみの幸」を、ライ麦は北海道の十勝地方で栽培する『中川農場』の素晴らしいものと出合えました。今月はスペルト小麦(古代小麦)も少しづつ試しているところです」
挽く前でもツヤなど表情は全然違う。左は普通の小麦で、右はスペルト小麦(古代小麦)。
「サワードウ・ベイカーになると、特別なappreciation(感謝)が生まれます」
繰り返しになるけれど、小麦粉と水を「発酵」させることで形作られるのがサワードウ種だ。見慣れた両者を太古から続く自然の摂理を利用して、それらの中に眠る野生酵母や乳酸菌など「微生物」を起こし、繁殖させる作業。この目に見えない不思議な営みこそ、パン作りの醍醐味である。
「日によって“機嫌が全然違う”んです。小さなペットのような存在で、毎日エサをあげたり、お世話をしています。名前をつけて愛でる人も多く、私の種はトール(Thor)とフレイヤ(Freya)という北欧神話に出てくる神様の名前をつけていますね。生地もそれが元に作られるため、コンディションが毎日変わる気まぐれなものなのですが、触ると思わずため息がこぼれます。手や嗅覚や味覚などすべての感覚を使って集中するから、日常生活で自然と押し寄せるさまざまな考えが消えて、今この瞬間に集中できるんです。頭が忙しすぎるとナイスなパンは作れなく、瞑想や禅のようでもあります。絶対に同じ状況はなく、人によっても日によっても少しずつ違う。だから、サワードウ・ベイカーになると、特別なappreciation(感謝)が生まれますね。仕事ではなく、自分自身のマインドを示せるライフスタイルなんです」
毎日面倒を見る代わりに、その身を少し頂戴する不思議な相互関係。日本でいうと、ぬか漬けに近いかもしれない。きっとサワードウ・ベイカーたちは、日々温度や湿度など環境によって個性が出るそれらと共存しているような感覚なのだろう。そして極論、種をお世話すれば、一生パンが作れるということでもあるのか……!
「デンマークでは週末に家族でパンを焼くことが多いんです。土曜の朝に生地を仕込んで、日曜の朝に焼きたての小さなパンを囲み、バターやジャム、チーズと一緒にゆっくりと朝食を楽しむ。それにオフィスでも、金曜の朝は同僚と朝食を共にする文化があります。私が働いていた職場は、上司が手作りのパンを焼いてきてくれたり、誰かが持ち寄ったものを皆んなでシェアしていましたね」
素材と向き合い、五感を研ぎ澄ませ、自分の心をパンに映す。「Super hard, but super rewarding(とても大変だけど、とてもやりがいがある)」と言うクリスティーナさんの楽しげな姿を見ていると、なおのこと自分で作ってみたい気持ちが膨らむ。目には見えない、しかし知れば知るほど豊かな、生きた酵母の世界がこちらを手招きしていた。
というわけで、あまりに素晴らしい営みだったので、POPEYE Webが行う授業形式のイベント「エデュケーション・クラブ」第2回は、クリスティーナさんを先生にお招きし、春のパン作りを開催することに! 教えてもらうのは日頃の主食としてまず押さえておきたいキホンのキ、カントリーブレッド。新生活間近の3月末、作り方からサワードウ種の育て方まで、ぜひ一緒に学びませんか?
教えてくれる人
Kristina Ganea
クリスティーナ・ガニア|1974年、モルドバ生まれ。2018年に夫の仕事の関係で、家族でデンマークから東京に移住。オーガニックで身体にやさしいパンを娘に食べさせるために、国産小麦粉をはじめとする材料のリサーチやパンの勉強をしながら自宅で毎日パンを焼き続け、2022年12月に広尾にサワードウ・ベーカリー『BRØD』をオープン。挽きたての石挽き粉を使い、サワー種で長時間発酵させたパンにこだわっている。
Official Website
https://www.brod.jp/
Instagram
https://www.instagram.com/brod.jp/