カルチャー
樋口一葉の知られざる素顔と出会う。『たけくらべ』舞台の地に作られた『台東区立一葉記念館』へ。
東京博物館散策 Vol.8
photo: Hiroshi Nakamura
text: Ryoma Uchida
edit: Toromatsu
2025年2月19日
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樋口一葉が描いた「下谷龍泉寺町」。
街の人々が“作った”記念館へ。
樋口一葉といえば5千円札のイメージがあるけれど、実際の一葉は“お金”には縁遠かった早逝の人。わずか5年ほどの執筆期間に22編の小説を世に出し、24歳でその生涯を終えた。代表作『たけくらべ』はこんな書き出しで始まる。
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、……
はじめから長く描写されるのは東京・吉原にほど近い「大音寺前」を舞台とした街の情景だ。遊女を姉に持つ14歳の美登利ら主人公の目を通し、8月の『千束稲荷神社』の例祭から、11月の「酉の市」を経た冬まで、浅草・吉原周辺の市井の人々くらしを活写する。
舞台となる下谷龍泉寺町に実際に住んでいた一葉。荒物(雑貨)駄菓子屋を営みながら暮らしてきた期間と、物語中で流れる時間が一致する。わずか10ヶ月ながら、一葉に作家としての“養分”を与えたこの街。当時は通り沿いに長屋が並び、田んぼや畑の広がるのどかなエリアだった。
この場所は現在の台東区竜泉。先述した『千束稲荷神社』や『大音寺』もすぐ近い日比谷線・三ノ輪駅近くにある。街を歩くと看板や「一葉」の名を冠した煎餅屋など、至る所で目にする「樋口一葉」の文字。作家が街を愛したように、街の人々も作家が住んでいたことを忘れなかった。忘れないどころか、一葉の没後、彼女を敬愛する地元の人々の間で顕彰活動が盛んにすすんだのだ。
1949年には戦災で失った「一葉記念碑」を再建し、『一葉記念公園』を整備。続いて1951年には一葉記念公園に「一葉女史たけくらべ記念碑」を建設、さらに1960年には一葉の旧居跡に「樋口一葉旧居跡碑」を建立した。そんな顕彰活動の集大成として1961年に建てられたのが『台東区立一葉記念館』だ。記念館の建設のため、有志の積立金をもとに東奔西走し、現在の用地を取得(!)。台東区に寄付をしたのだとか。トップダウンではない、なかなかにインディペンデントな熱意ある経緯にしびれる。
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「一葉女史たけくらべ記念碑」。樋口一葉の命日である11月23日を含んだ数日間、一葉を偲び「一葉祭」が開催される。
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春の桜も見どころの「一葉記念公園」。
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館から歩いてすぐの場所に一葉旧居跡がある。
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館の設立に尽力した上島金太郎氏は地元の畳店の店主。後に『樋口一葉とその周辺』を著した。
『台東区立一葉記念館』で辿る一葉の半生。
館は3階建。1階には「ライブラリー」と「エントランスギャラリー」、2・3階には3つの展示室があり、自筆の書簡や草稿をはじめゆかりの資料をもとに、一葉の24年の生涯と読み継がれる作品の広がりを紹介する。この日は館の学芸員、石井さんに案内をしていただいた。
樋口一葉は1872年、東京都千代田区に生まれる。父は東京府庁に勤めており、現在でいうところの公務員。幸薄いイメージも多い一葉だが、当時としては中流程度の家庭に生まれていたそう。学業では成績優秀。しかし、世は明治時代。「家父長的家制度」が当たり前にあったこの時期において「女子に学問はいらない」と母から反対され進学は諦めるものの、歌塾「萩の舎(はぎのや)」で古典・和歌・書を学んだ。
歌人・中嶋歌子が主宰する「萩の舎」では、名家の令嬢や知識人らが集い、一葉は多くの女性たちと交流しながら、和歌や書の才覚を現しはじめる。明治以降としては初の女流作家であり、一葉が小説を目指すきっかけを作った田邊(三宅)花圃、生涯の友となる田中みの子や伊東(田辺)夏子ともここで出会った。
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「千蔭流」とよばれる書の美しさも見どころ。親友・伊東夏子とは「いなっちゃん」「ひなっちゃん」(一葉の本名は奈津)と呼び合っていたとか。
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一葉の小説が掲載された同人誌「武蔵野」
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兄・虎之助は分籍するが、薩摩焼の絵師として活躍した。
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「青海学校 小学中等科第一級の卒業証書」一葉は飛び級し年上の子供たちと学んでいた。
次の転機となったのは長兄と父の死である。期せずして家督を継ぐことになった一葉。母、妹とともに苦労の日々を過ごす。
「生活費を得るため、原稿料で家族を養うために小説を書き始めるんです。当時の人気作家・半井桃水の手ほどきを受けながら、『闇桜』で第一歩を踏み出します」
その後もいくつか小説を書き、わずかながら原稿料を得るが貧窮からは脱することができず。借金は重なるばかりか、恩師・桃水との勝手な恋愛の噂にも頭を悩ませていたらしい。そして、一葉を取り巻く悩みの種から距離を置くために転居した先が、下谷龍泉寺町であった。
「家族との熟議の結果、実業に就くことになります。日記や帳簿などマメに書いていて、没後も妹・くにら周りの人たちが大切に保管していたため、駄菓子屋でどんなものを売っていたのかまでも詳細に記録に残っています。日記や『たけくらべ』で描かれる街の雰囲気や人々の生活は、考証とも一致する部分が多く、一葉はこの地で商売をして、人々をよく観察していたのだと思います。当時の社会の中でも特殊な街でしたが、その吉原に多くの人が依拠して仕事や生活をしている様子をリアルに描いているんですよね。
この時期、一葉は筆を折っていたのですが、交流の多かった『文学界』同人にくり返し寄稿を依頼され、これを受けて『琴の音』『花ごもり』だけ発表をします。ただ、本人は『これならずんば死すともやめじと只案じに案ず』と日記に記しており、再び書くことに対して非常に苦しんでいたようです。商売も長くは続かず、生活が行き詰まってしまい、一葉は再び小説の道を志します」
その後、日清戦争が開戦した1894年になると、物資の不足やインフレにより、貧窮に益々の拍車がかかることになる。しかし、一葉は『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』と次々と名作を執筆し(『たけくらべ』を書き上げたのもこの時期)、「奇跡の14ヶ月」と後に呼ばれる、作家として黄金期を迎えるのだ。
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当時の商品が事細かに記入されており、明治期の文化的資料としても興味深い。
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『たけくらべ』は当時の文壇での最高権威でもあった森鷗外や幸田露伴、斎藤緑雨らに絶賛される。写真は『にごりえ』や『十三夜』を掲載した『文藝倶楽部』
原稿の締め切りから逃げていた? 僕らのような一葉。
『にごりえ』が賞賛された際の一葉は、“女性が書いた小説”という目新しさに世間は狂騒しているだけであると考え、“ブーム”をどこか冷静に受け止めていたようだ。この時期の日記には『水の上』というタイトルをつけ、自身を「水の上」に漂う舟に、周囲の人びとを水面に浮かんでは消えていく花に例えていたとか。非常に無常感が漂っている。そして文学者として活躍し始めた矢先の1896年、肺結核が悪化したことで24歳という若さで亡くなる。
「当時の日記を読むと、執筆に四苦八苦していることがわかるんですよ。締め切りがあるのに歌会にいっちゃったとか、原稿が書けない時には、掲載を仲介してくれた花圃宛に“見捨てないで”と言い訳をする手紙とかもあるんです。お札や教科書などで見るあの写真からは生身の一葉を想像することが難しいかもしれませんが、作品だけじゃなくその裏にある苦労など、小説が出来るまでのプロセスを知ると、人間らしい部分や新たな発見があると思います」
作家期間よりも長く、20年間もお札の“顔”として勤め上げた一葉。だからこそ、ついつい知ったつもりになっていたし、その多作ぶりや、評価の高さから、天才が魔法のように次々と原稿を生み出したように感じてしまっていた。しかし、この街や展示をじっくり見ていくと、悩んだり、苦労していたり、楽しんでいたりと、短い生涯を駆け抜けた一葉のリアルな人物像が浮かび上がってくるのである。
「われは女成けるものを、何事のおもひありとてそはなすべき事かは」(自分は女だから、やりたいことがあってもそれを実現することはできない)と記したのは最晩年のこと。一葉が残した素晴らしい作品たちやメッセージ、その人生が水中に沈んで消えてしまわないために。街の人々の熱い想いから、この記念館がある。
インフォメーション
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台東区立一葉記念館
◯東京都台東区竜泉3-18-4 ☎︎03•3873•0004
9:00〜16:30(入館は16:00まで) 月(祝休日と重なる場合は翌平日)、年末年始、特別整理期間等・休
1961年開館。現在、一葉の小説デビュー作「闇桜」の直筆未定稿とその掲載誌『武蔵野』第一編をデザインした「特製和紙ファイル」を来館者全員にプレゼント中(無くなり次第終了)。石井さんは、一葉の過ごした時期の理解を深めるために映画『にごりえ』(1953年/今井正・監督)の鑑賞もおすすめだそう。
Official Website
https://www.taitogeibun.net/ichiyo/
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