ライフスタイル

僕が住む町の話。 / 文・いしわたり淳治

空白を彩った自由が丘

2021年4月15日

illustration: Eiko Sasaki
2021年5月 889号初出

僕が住む町の話。

 21歳で青森から上京して、最初の10年間は賃貸契約を更新することなく、三軒茶屋、駒沢、自由が丘、再び三軒茶屋、桜新町と2年毎に引っ越しをしていた。渋谷に事務所があっただとか、しょっちゅう渋谷に用事があったわけでもないのに、渋谷にアクセスがいい街ばかりを選んでいたのは、今思えばなぜだろう。「東京の若者といえば渋谷」という田舎者ならではの幻想みたいなものが、もしかしたら心の奥にあったのかもしれない。

 いちばん長く住んだのは三軒茶屋だけれど、いちばん思い出深い街は自由が丘だ。青森在住のままスーパーカーというロックバンドでメジャーデビューして、事務所に言われるがままに住み始めた三軒茶屋という街に対して、バンドを解散した時に住んでいたのが自由が丘だった。

 バンドの解散の仕方は色々あるだろうけれど、私の場合は解散をメンバーが言い出してから約一年間、レコード会社との話し合いが続いた。それはつまり、正式に解散が発表されていない以上、誰かに今後の相談をすることも、何か予定を立てたり行動を起こしたりすることも許されない、本当の「空白」の一年である。その意味で、私にとっての自由が丘は、皆さんが住む自由が丘とは少し意味合いが違うと思う。朝会社へ出かけて夜帰って来るような「寝床」としての街ではなく、私は本当に朝から晩まで自由が丘の街にただただ「いた」のである。

 今はどうかはわからないが、15年前の自由が丘のイメージは「女子の好きな雑貨やスイーツの店が多いお洒落な街」みたいな感じだった。それでも私は、「いや、そんな雑貨とスイーツばっかりの街なんてあるかいな」と思って軽い気持ちで住み始めたのだけれど、思った以上に雑貨とスイーツの街だった。街を歩いている人もほとんどが女性で、おかげで私のバンドには興味のなさそうな人が多く、その意味では顔を指されることもなくて都合が良かった。ただ一つ都合が悪かったのは、洒落た店ばかりでくつろげる飲み屋が少ないことだった。毎日絶望的に時間を持て余している私には、とにかく長居できる居酒屋が必要だった。街中の飲み屋を渡り歩き、最終的には駅から徒歩5分の雑居ビルの2階にある炉端焼き屋が私のホームになった。

 正直、もう音楽はやめようと思っていた。でも、だからといって何をしたらいいかもわからない。一人になると色々と考えてしまうから、当時入っていた草野球のチームメイトたちと、できるだけ音楽と関係のない話をしていた。私はこの時期を「トリプルファイブ」と呼んでいる。冗談抜きで本当に夕方5時から朝5時まで週5で飲んでいたのである。ほぼ毎日12時間も店のいちばん大きなテーブル席を占拠する若者たちを、何も言わず受け入れてくれる店主のやさしさがありがたかった。

 今思えば、あれがいわゆる「荒れた暮らし」というものなのかもしれないけれど、学生時代にメジャーデビューをして慌ただしく二足のわらじを履いていた私には、遅れて来た青春のようで、どこか楽しい毎日でもあった。実際、昼の12時に起きて、青空の下で駒沢公園をランニングしたり、野球をしたり、読書をしたり、不健康なりに健康的に暮らしてはいた。

 その炉端焼き屋で、生まれて初めてボトルキープをしたのを覚えている。自分の名前の書かれたタグがぶら下がったボトルを見るのも、店に行けば何も言わなくてもそのボトルと氷と水とグラスが出てくるのも、妙にうれしくて、明日から無職になって何者でもなくなってしまうかもしれない、消滅寸前の自分の存在みたいなものを、そのボトルは認めてくれているような感覚がした。

 店ではよく季節の魚を刺身にしたり焼いたりしてもらった。そして、塩サバと焼きうどんをシメに毎回食べた。他のおすすめ料理とは違って、塩サバも焼きうどんもたぶん近所のスーパーで手に入るものだったと思う。でも、あの日々を思い出した時、真っ先に思い浮かぶのはその2つの料理である。未来から目を逸らしながら、空騒ぎの中でほぼ毎日食べ続けたあの味は、特別なものがある。

 そんな暮らしが1年も続いた頃、いよいよバンドは解散した。私は作詞家・プロデューサーとして、もう一度ゼロから音楽をやることに決めた。そのためには自由が丘でひっそりと暮らすのをやめなければと思った。鈍ってしまった時代の感覚を取り戻そうと、私は上京した時と同じ、三軒茶屋に再び引っ越すことにした。

 通いなれた炉端焼き屋で、最後の塩サバと焼きうどんを食べて、「今までありがとうございました。三軒茶屋に引っ越すのでなかなか来られなくなります」と伝えると、「えっ!?」と店員が驚いた顔をして、「うちの店も今度、三軒茶屋の駅前に移転するんですよ」と言った。実際、引っ越した私の家と新しい店は目と鼻の先だった。それからもしばらくその店にはお世話になった。新規オープンの時にお店が好意で作ってくれた漆黒の陶製の焼酎キープ用ボトルには、私の本名が墓石のようにドカンと刻み込まれて、今も店のいちばん見晴らしのいい棚の上に鎮座している。かなり気恥ずかしいが、うれしい限りである。

プロフィール

いしわたり淳治

いしわたり・じゅんじ|作詞家、音楽プロデューサー、作家。1977年、青森県生まれ。Superfly「愛をこめて花束を」の作詞他、数多くのアーティストを手掛ける。3月に野村陽一郎、中村泰輔と新ユニットTHE BLACKBANDを結成。