ライフスタイル
僕が住む町の話。 / 文・鴻池留衣
大井町
2021年5月28日
illustration: Eiko Sasaki
2021年5月 889号初出
2009年、当時通っていた大学で進級するにあたって、キャンパスが神奈川から東京に変わったので、僕は横浜市内から品川区の大井町駅近隣に引っ越した。とは言え大学の授業に真面目に出るわけでなく、もっぱら新しい町の風景の中をワクワクしながら散歩した。新橋にあった築地仲卸業者直営の居酒屋でアルバイトをしていた影響から、近所の「つるかめランド」という魚介の豊富なスーパーで季節の魚を買い、アパートの小さな台所で捌いて食べるという自炊をしていた。夜中部屋に友達を呼んで酒盛りをし、時々ローソンへ買い出しに出かけ、昼に目覚めて家系ラーメン武蔵家に行き、脂肪と塩分と炭水化物を過剰に摂取した。やがて結婚することになる女性と出会い同棲を始め、彼女と2012年に浅草へ引っ越すまでのおよそ三年の間を、大井町と共に僕は過ごした。東日本大震災があった時もそのアパートにいて、大きく揺れている最中彼女と一緒に部屋から飛び出し、防災無線の放送を聞いた。
大井町は、二十三区南部の、海に面した町と内陸部の町の両方の雰囲気を併せ持っている気がする。京急の町っぽさと、東急の町っぽさの混ざるところ、とでも言おうか。大森や蒲田にも、もしかしたらそういう二面性があるのかもしれないけれど、住んだことがないのでわからない。鉄道路線が十字形に交差する町。その北西ブロックはJRの広大な敷地であり外部の人間には開放されていない。と思いきやいつの間にか劇団四季の劇場が出来あがっており、そこで『美女と野獣』が観られた町。あの頃から今(2021年3月)に至るまで、一向に全通しない鮫洲大山線の道路が横切る町。電車一本でお台場へ行ける町。汚い店でお酒が飲める町。大井町。
小説家になろう、と決めたのは、大井町だった。それまで自分が何をすればいいのかわからず、しかし何かやりたくて悶々とした日々を送っていた僕は、ある日アパートの玄関から出て、ドアに鍵をかけた拍子にふと、「小説家になろう」と胸の中で呟き、そう決めたのだった。理由はわからない。当時はまだあった近所のドトールでミラノサンドBをテイクアウトし、かじりながら歩き、ゼームス坂を下って、やがて中退することになる大学の授業を受けに行った。大井町からキャンパスまで徒歩だと一時間以上かかる。夏で、やけに天気が良かった。しかし暑さよりも、ようやく自分の道を見つけた嬉しさが勝った。友達はみんな就職活動を始めていた。その類の行動に何ら着手していないどころか、単位の取得数からして卒業の見込みも絶望的な僕だったが、そんな僕の部屋には時折彼らが逃げるようにやって来た。そして就活の辛さを吐露するのだ。聞いているこちらはケロっとしており、つまり自らの現在や将来について何の不安も感じていなかった。周囲の幾人かは、そんな僕のことを、早くも人生を諦めたのだと勘ぐっていたようだが、しかし僕の方には、遅かれ早かれプロとしてデビューできるだろうという根拠のない確信があった。別に小説家になるからと言って、就職してはいけない道理など無いのだけれど、当時の僕は、限りある時間を全て小説の為に充てたかった。「小説がダメだった時のためにも、就活しておけ」と僕を叱った友達に対しては特に、この説明不能な確信を伝えて勝ち誇りたかった。僕はやがて小説家になるのだ。「お前と違って僕の未来は確定している」と言いたいところだが、それは僕だけにしかわからない事実なので、いくら事実とは言え他人と共有することはできない。夕方になると、町には買い物に出掛ける人々、酒場で立ち飲みを始めるおじさんおばさんたち、夜の仕事に出かける人たちが、どこからともなく現れ賑わう。そんな大井町だけが、ピカピカの事実を手に入れた僕のことを祝福しているように思えた。
拙作のうち、今のところ二作品に、舞台として大井町が登場する。「ナイス・エイジ」「スーパーラヴドゥーイット」共に、東口駅前の居酒屋で物語は始まる。作者による設定として、それらは作品を跨いで全く同一の店舗だ。そしてもちろん、実在した店をモデルにしている。当時僕が働いていたチェーン店だ。あの頃、小説家志望の僕と、同棲する漫画家志望の彼女には、とにかくお金が無かった。アパートから歩いてものの二、三分のアルバイト先。スタッフには地元人も外国人もいた。あの頃の仲間たちが、今どうしているのか知らないし、さして興味も無いけれど、彼らに祝ってもらった2012年の僕の誕生日のことは今でも時々思い出す。「鴻池ちゃん、頑張って小説家になってね、絶対に」と応援してくれた。そんな彼らに、この場を借りて報告させてもらおう。やはり未来は確定していたよ。そして今でも僕は、あの頃と変わらず慢心しながらも、精々頑張って小説を書いているよ。大井町から引っ越して以来、店には九年ほど足を運んでいなかったが、先日、小説の取材として久しぶりに訪れた。すでに潰れて別の店になっていた。いつだったか、クタクタになるまで働いた後に、みんなと一緒に店内でこっそり飲んだ、あの冷たい生ビールの味は忘れられない。
プロフィール
鴻池留衣
こうのいけ・るい|作家。1987年、埼玉県生まれ。2016年、「二人組み」で新潮新人賞を受賞。著書に、「二人組み」と本文中に登場する「ナイス・エイジ」を収録した『ナイス・エイジ』の他、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』がある。
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