カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/大森克己

2022年9月13日

photo: Yuri Manabe
text: Neo Iida
2022年10月 906号初出

トイレ共同、風呂ナシの四畳半で、
ガルシア=マルケスと橋本治を読み耽った、
まだ何者でもなかった1年間。

 大森克己

芸術に触れたくて、
関西を抜け出して日芸へ。

 四畳半の蒸し暑い部屋で、酒を飲み、音楽を聴いて、ガルシア=マルケスを読み耽る。お金もなく、恋人もいない。二十歳の大森克己さんは、南長崎のアパートで、そんな日々を過ごしていた。上京して2年で大学をドロップアウト。そこに至るまでに、何があったのか。

「もともと写真だけじゃなく、演劇とかジャズとかロックとか、芸術全般に憧れがありました。高校時代は地元の宝塚から神戸や大阪まで映画を観に行ったし、クラッシュとかスティービー・ワンダーとかエリック・クラプトンのコンサートにも足を運んで。持ち物検査なんてなかったから、ライブ中に客席から200ミリのレンズで勝手に写真撮ったりしてね」

 だから大学は、演劇でも映画でも、芸術に関わる学科に行こうと考えた。加えて、関西圏から出たい気持ちもあった。

「いい学校は関西にもあるけど、ベタベタにローカルな環境がどうもなあと。カツアゲされるときに『友達やんけ~』と絡まれる、その感じがすごい嫌で(笑)。今となっては関西めっちゃ好きですよ。でも当時は『ここで芸術は無理や!』と」

 浪人せずに入れる東京の大学を探し、日本大学芸術学部写真学科に合格。1982年3月から池袋のアパートで新生活をスタートさせた。しかし、念願のキャンパスでややズッコケてしまう。「みんな、思ったよりアートに興味がなくて(笑)。ローリー・アンダーソンやパティ・スミスみたいな学生たちがいるかなと思ったらそんなわけもなく、勝手に憧れて自分の頭の中で作り上げていた〝アートスクール〟のイメージとはかなり違っていました。先生たちもコンサバティブで、アンセル・アダムスの写真がどうしたっていう感じで、もう少しコンテンポラリーなものはないんかなって」

 それでも西武池袋の美術書店『アール・ヴィヴァン』には足繁く通った。『ナディッフ』の前身となるこの店で、大森さんは海外の写真集をたくさん見たという。

「超感動しました。当時の最先端だったニューカラー派のジョエル・マイロウィッツとかウィリアム・エグルストン、同時にダイアン・アーバスとかリチャード・アヴェドン、ロバート・フランクみたいなマスターピース写真集も置いてある。世の中にはこんなにすごい写真があるんだと、しょっちゅう立ち読みしてました」

 そんな折、日芸の先輩が代々受け継ぐ『ブルータス』のアルバイト枠が空き、社カメのアシスタントをすることに。

「僕の仕事は本の複写とか店取材の同行くらい。他のバイトだと、『アンアン』にホンマタカシくん、『ポパイ』に日置武晴くんがいて、彼らはファッションを撮る手伝いをしていたので、いいなあと」

 メディアの仕事は刺激的だった。ある日、編集部員だった都築響一さんから「大森ちゃん、手伝ってあげて」と、来日したブライアン・クリークというイギリス人アーティストが作品を作るためのアテンドを任された。作品を背景にファッション撮影を行う企画に立ち会い、3日ほどスタジオに缶詰めになったのだ。

「撮影後に『お疲れ~。大森ちゃんワイン買ってきて~。辛口の白ね!』って言われて、マジ!? って焦りながら近所の酒屋でシャブリを2本買ったら『合格!』って(笑)。一人で仕事を任され、しかも相手は西洋からやってきたアーティストで、僕も初めて英語で喋って……。今までそんな経験なかったから、ものすごく印象に残ってます」


AT THE AGE OF 20


大森克己
スタジオエビス時代、先輩のカメラマンが撮ってくれた一枚。著書『山の音』にも似てる人の話が出てくるけれど、KUWATA BAND時代の桑田佳祐に似てる? ちなみにスタジオ就職後はというと……。「『人のレフ板を持っていてもしょうがないな』と思い始めて、1年で円満退社しました。大学の同級生が『パチ・パチ・ロックンロール』という音楽雑誌の仕事を振ってくれて、ラフィン・ノーズ、ユニコーンとかのライブを撮るように。イカ天ブームの頃で、ピーク時は渋谷公会堂に週6で通ってました」

バイトと大学を辞め、
酒と音楽と本に溺れた。

 華々しい経験をした学生が、一足飛びにメディアの世界へと進むケースは少なくない。しかし大森さんは踏み留まった。

「長くいるのは違うなと思って、1年で辞めました。大人っぽい世界に入っていくにはまだ子供過ぎるというか、やり合うためのスキルも知識もないって十分感じてましたから。編集部は面白いんですよ。電話に出れば『村上だけど?』って言われて、え、あの村上龍かあ~! って震えたし、男性がお互いを『おしゃれだね』って褒め合うのも初めて見た(笑)。でも、いくらロレックスの話をされても、こっちは1万3000円のアパートに住んでるわけですよ。距離感はありましたけど、学生時代に小僧としてそういう人たちと出会えたことは、結果良かったんじゃないかなと思いますね」

 時はバブル前夜。糸井重里さんの「おいしい生活」が話題になり、広告写真に勢いがあった。セゾン現代美術館ではMoMAの写真部門のセレクション展があったが、現代美術的な感覚は世間に根付いていなかった。森山大道さんも荒木経惟さんもアンダーグラウンドで、写真学科で話題にする人も少ない。写真業界は、可能性を秘めた黎明期だったのだろう。

「路上でスナップみたいなことはやってましたけど、ワナビーっていうか、まだ何も出合ってない感じです。授業に出ても、別に写真史を勉強したいわけじゃない。言ってしまえば、写真は誰だって撮れるんですよ。それで単位も真面目にとらなくなって、3年の前期で『中退します』って言って、辞めちゃいました」

 その頃住んでいたのが、冒頭の南長崎のアパートだ。池袋から越した先は、トイレ共同、風呂ナシの四畳半。さしあたっての予定がなくなった大森さんは、近所の学徒援護会で日雇いバイトを探し、倉庫整理など即金の仕事で食いつないだ。

「本とお酒を買って、お金がなくなったらまたバイトをするっていうその日暮らしでした。華やかな世界にうちのめされて、少し孤独モードに入って、同級生と会う回数も減って。そのかわり、本はめちゃくちゃ読みました。橋本治は人間が生きる上での倫理とか欲望とか、いちばん自分に切迫してきた人。ガルシア=マルケスは単純に異国への憧れです。今思うとめっちゃ贅沢ですよね。家賃を溜めこんだりもしたけど、3か月溜めても3万9000円(笑)。でも、払ってくれって怒られた記憶もないんだよなあ」

 気ままな暮らしを1年続けたものの、貯金も出会いもない。本来大学を出て就職する22歳までには海外旅行に行こうと思い立ち、キャピトルホテル東急で1日1万円という皿洗いのバイトに就いた。半年で50万円を貯め、2か月かけてパリからモロッコ、スペインを回ったという。

「自信が付いたわけじゃないです。だってまだ何もできないんだから。でも世界は広いなあってまさに文字どおり思ったし、パリやバルセロナは素直にかっこよかった。街の造りも、光も、東京とはまた違う。これが都会というものか! と」

 漠然と、戻ったらスタジオマンをやろうと思いながら帰国し、「スタジオエビス」に就職。いよいよ写真を生業にする一歩を踏み出した。住まいも恵比寿に移し、こうして3年ほど過ごした南長崎の四畳半生活は幕を閉じる。
「若者なりのイライラはあったと思います。でも悲壮感はなかった。まだ何者でもなく、自由で、濃かったですね。戻りたいかと言われたら戻りたくないけど、お前いいなあって。ちょっと羨ましいです」

大森克己

プロフィール

大森克己

おおもり・かつみ|1963年、兵庫県生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退。1994年キヤノン写真新世紀優秀賞受賞。写真集に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。初の著書『山の音』(プレジデント社)発売中。

取材メモ

大森さんの記憶を頼りに思い出の地を歩いたものの、アパートはなくなっていた(残念!)。取材は近くのド渋い喫茶店で敢行。写真新世紀で賞を取った頃、ヒロミックスさんや長島有里枝さんと同時期に媒体に登場したせいか、「来年還暦って言うと驚かれる(笑)」と言う。でも『山の音』の日記の項なんてフッカル過ぎて、お世辞抜きで若い。Tシャツには『ピーナッツ』の名言「年をとることを心配したことありますか?」がプリントされていた。