TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#2】日本人はどのような服装体験をして来たか?

執筆:井野口 匡 / 国士文通省

2026年1月17日

41才おじさん 毎日幸せエッセイ(引用元 : 吉本芸人 男気サトシ)
ハッピー、ハッピー、ハピネス✌️
【質問タイム】みんなは、まっすぐ歩くの好き〜?

そういったこともありますよね。さぁ、本日も、乱れていきましょう。
福岡県福岡市中央区警固で FASHION PLAYER という店をやっている、国士文通省こと、限界ダイエットおっさん、GDOこと、ださまさしこと、MRCY a.k.a IKAこと、マァシィこと、井野口 匡がお送り致します。趣味は、ポケモンカードバトルとストリートファイター6です。

第一回目を読んでない方は、読んでから読んでください。極力。

この第二回目に、日本人の服装体験 前編、第三回目に、日本人の服装体験 後編、締めの第四回目で、FASHION PLAYERが何をしているかを書き、日本の服装史の先っぽにいることを、自ら記述していく予定です。

日本人はどのような服装を経験して来たか?について

日本人ほど、短期間に服装の意味が変わり続けた民族は珍しいらしい。和服が日常だった国が、洋服の国になり、モダンになり、統制され、戦後の焼け野原から立ち上がり、若者文化に熱狂し、ブランドに酔い、古着を掘り、いまは服を、読み解きすぎるところまで来ている。

服装史というと、年号や流行の話になりがちだが、今回はそういう話をしたいわけじゃなくて、日本人がどんな服を着てきたかではなく、どんな服を経験させられてきたかの話をリサーチの範囲内で、簡潔に書きたいと思います。

時は、1868年、明治維新。
日本の服装史は、ここで一気に別の世界に入る。明治の洋装化は、おしゃれでも、憧れでもない。国家のサバイバル戦略として行われた。

近代国家として対等に見られるために、まず見た目を変える。

人に馬鹿にされないためのファッションは、もう、ここから始まっている。

現代では、馬鹿にされないための対象が、国から曖昧な社会やその規範、友人や恋愛対象など、相対する敵みたいなものにすり替わった。明確な対象があるなら、まだしも、誰にも見られてないのに、誰かや何かを意識するような世の中ではないか?

そんな私も、ずっと馬鹿にされているというか、逆に、何も気にされてないような被害妄想がある。

ファッションにナルシズムはつきものだから。ファッション病は、産まれてから死ぬまで治らない。

この時代、明治政府は、近代国家として世界に対等に立つため、まず見た目から西洋化していくという実用主義を採った。そのため、1870年代に相次いで、服装令が発布される。

1871年:散髪脱刀令 → 髷(まげ)廃止へ 1872年:洋服礼賛布告 1872年:軍服を西洋式に統一、官僚・役人はスーツを着用、学生は制服(詰襟)を着用。つまり、明治の洋装化は国策であり、強制的近代化だった。この頃は、服の正解が国家によって定義されたということだ。

官僚はスーツ。 軍人は西洋式軍服。学生は詰襟。男性の外見は、一気に洋装へと振り切られる。

一方で、女性はほとんど和装のままだった。洋装は上流階級限定的で、舞踏会に出る上流階級、女学生の袴+ブーツといった例外を除けば、日常は着物で過ごす。
この時代は「男は洋、女は和」という、ねじれを抱えたまま進む。

同時期に、百貨店が生まれ、仕立部を持ち、既製服産業が出現した。

三越・松坂屋・白木屋・高島屋が台頭し、店内に「仕立部(アトリエ)」を設け、大量の服を縫った。自社で生地調達し、自社・外部工場で縫製をして、店頭で販売する。これが、日本のアパレル産業の原型となった。ミシンが普及し、繊維産業は国家の経済を支える柱になる。

自分も、文化服装学院のアパレル技術科を中退しているが、学院は、かなりちゃんとミシンを踏まないといけなかった。自分の記憶が正しければ、スーツを丸々縫い上げるところまで、学校に通っていて、それからは、文化ファッション大学院大学(BFGU)に入学が決まってから、そこを卒業するまで、積極的にミシンを踏むことはなかった。BFGUでは、デザインコースに在籍していたので、服を作る上で、ミシンを踏む必要はあるが、デザインを考える上で、ミシンを踏む必要は必ずしもないから。ミシンを踏むと没頭して、自分をMissingしてしまう。

🐴そういったこともありました。

明治〜大正にかけて、日本は世界最大の綿織物輸出国、 世界最大の生糸輸出国だったらしい。繊維産業が、近代日本のGDPを支える主役となった。

明治とは、外見を西洋化することで、国際社会に参加しようとした時代だった。

服は自分で選ぶものではない。国のルールに従うものだった。

大正に入ると、空気が変わる。国家の命令ではなく、街の欲望が服を動かし始める。資本主義の歯車が動いた。国が決めた方向性に、国民が呼応し始める。

大正は、明治のような強制ではなく、文化としての洋装化が起きた時代となった。

都市が膨らみ、中間層が増え、カフェや映画、雑誌が生まれる。ここで初めて、日本人は、自分のために服を着るという感覚を持ち始める。もしかしたら、日本の精神が、グローバリズムの解釈を経て、表層に現れ始めた原初かもしれない。

象徴的なのが、モダンガールで、 ボブヘア、ワンピース、ハイヒール。女性が洋服を、日常着として楽しみ始めた。男性のスーツは完全に定着し、百貨店は「文化を売る場所」になっていく。

この頃の、三越のキャッチコピーに、デパートメントストアは文化である。というものがあったようだ。インターネットでショッピングが普及し始めて、百貨店の魅力は薄れていたように思うが、また、デパートメントストアは文化である。というような気概で、楽しい場所を生み出して欲しい。

その頃の百貨店では、ファッションショー、商品広告(新聞・雑誌)、子ども服の大量生産
も開始し、現代のアパレル企業に近づいていく。既製服が大衆化し、洋服は上流階級のものではなくなる。

大正は、内側からの国際化の時代だった。世界視点の日本人は、この頃に産まれたのか?

このような流れで、昭和初期、都市は一時的に華やぐ。銀座にはモダンボーイ、モダンガールが溢れ、服は洗練されていく。平成は、ギャルが生まれ、ギャル男が生まれた。

しかし、戦争が始まると、状況は一変する。

昭和前期は、服が軍事・国家・統制と強く結びついた時代である。日中戦争(1937)〜太平洋戦争(1941)に入り、政府は服装を、節約・統制へと向かわせる。

女性は、無地、シンプル、装飾禁止の標準服が推奨され、モダンガール文化は終焉する。男性は、国民服、と呼ばれる立ち襟、簡素、暗色の軍事色が強い服を着用するようにルール化された。

スーツ文化が後退し、服は完全に、国家の道具になる。物資は不足し、着物は裏返され、ほどかれ、古布の再利用で作り直される。男物の羽織を女物に直すような、サイズダウンのテクニックや、毛糸のほどき直しをしたり、下駄の台を再利用したりしたらしい。戦争の状況から生まれるリメイク文化。現代の大量生産、大量消費から生まれる大量の産業廃棄物としての服に何を思えば良いのだろうか?

戦争の真っ只中、1944〜45年は極端な衣料不足になり、服は文化でも、自己表現でもなく、生き延びるための資源に戻る。昭和前期は、服が国家に支配された時代となった。

終戦。日本には服がなかった。物資が不足し、生地が不足し、工場も焼け落ちた戦後の時代背景。国からの配給制度、着物の裏返し・解き直しのリメイクや、米軍のお下がりである占領軍(GHQ)の払い下げ品が大量に流れ込み、戦後最初のアメリカ古着文化が始まる。アメリカ古着は、最初からファッションだったわけじゃなく、生存のための衣服だった。

経済が復興すると、服装が、生活の安定を象徴し始める。男性は会社員として制服化され、サラリーマン=スーツ文化が確立し、制服化(会社員、学生、銀行員)していく。また、女性は洋裁で家庭の服を縫う洋裁ブーム、ワンピースが普及し、白襟の清潔なイメージが時代の象徴になった。この頃、以前に栄えた既製服産業が再復興し、百貨店(松坂屋・三越)が既製服を量産し、国内縫製工場が増加していき、日本製の洋服が、初めて国民標準になる。現代のワードセンスなら、ユニクロ化だろうか?

この時代、日本人は、服があること=ちゃんとした生活だと認識するようになった。

戦後の復興の中、東京オリンピック(1964年)が、日本に若者文化を誕生させる。東京オリンピックは、スポーツイベントである前に、国家による「戦後は終わった」という宣言だった。戦後の焼け跡が、高速道路・新幹線・ビルとなり、国から配給されていたものを、仕事をして稼いだお金で消費し始め、生きるために暮らすことから、余裕が生まれ、余暇を楽しむようになった。親世代は「生き残る」ことが目的だった。が、1964年を境に、子ども世代は「どう生きるか」を考えていい空気が生まれた。1960年代、日本は、ベビーブーム世代が10代後半〜20代に突入する。人数が多い、学校に通っている、同じ音楽、雑誌、テレビを見る。つまり、同時代感覚を共有する巨大な集団が出現した。それ以前も、若い人はいたけど、「若者」という文化単位は存在していなかった。

オリンピックに向けて、東京は再設計される。原宿・渋谷・新宿の開発。カフェ、映画館、デパート、ブティックなどの文化を感じる場所。若者(子ども)が、親と切り離された時間を過ごせる場所が一気に増えた。学校でもない、家でもない、職場でもないような場所。服・音楽・髪型が、仲間内のサインになり、スタイルが形成された。若者文化とは、都市文化とも言える。

東京オリンピックは、テレビの時代の始まりでもある。カラー映像で、海外のスター、海外のファッション、海外の音楽の情報が入るようになり、同時期に、音楽番組、若者向け雑誌、ファッション誌が、次々に生まれる。

ここで、若者向けがビジネスになると、社会が気づいた。日本製ジーンズ、BIG JOHN、EDWINなどが、国産ジーンズを作り始め、日本のアメカジの種がまかれ始めた。

服は、大人のためのちゃんとした生活から、 若者のための、遊び道具に変わる。ここで初めて、服は、自己表現と呼ばれるようになった。

この時代、服を着ることそのものが、楽しかった時代のようだ。

次週、後編に続くが、果たして、これを読む読者の方々は、服を着ることが楽しいだろうか?服を着ることが楽しくないのは、時代のせい?人のせい?はたまた、他の何かに楽しみは奪われたのか?

第一回にも書いた。

服は、自分を見せる最古のSNS。SNSがなかった時代のセルフメディア。

あなたは、世の中に何を見せつけていますか?

プロフィール

井野口 匡

広島大学卒。文化ファッション大学院大学(BFGU)修了。福岡を拠点に、国士文通省名義での表現活動と、FASHION PLAYERという服屋を運営している。 FASHIION PLAYERは、コンテンツとして、PodcastLINEオープンチャット服託択宅(ふくたく)委託/買取サービスを持ち、服を着る生活をゲーム化しようとしている。

Instagram
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