カルチャー
レストランと恋の話。/鈴木涼美
2023年1月5日
『たかが春先のスカートの丈』
夜8時に麻布十番と指定してきた十歳も上の彼が、いつも行く焼き鳥屋以外の場所を予約しているなんて想像していなかった。大学院生だった私にとって経営する会社がメディアに取り上げられるような男は全く別世界の人だったけど、私は劣等感を悟られまいと必死で、彼と会う時には背伸びをするか過度に若さと傍若無人を意識するか、日によって両極端な格好をしていて、そんな荒唐無稽な若い女を、彼はそれなりに面白がってくれていたと思う。その日も異様に丈の長いスウェット生地の上着に裾にだけフリルのついたミニスカで出かけた。
曲がるはずの小道を通り過ぎるので訝しんでいると、連れて行かれたのはカップルには定番の、学生には憧れの、プールを囲むようにテーブルが配置されたフレンチのレストラン。2年前のクリスマスに前の恋人に連れてきてもらって甚く感動した場所だった。「ここならちゃんとした格好すればよかった」と膨れ面をする私に、「暖かくなってきたし、屋上のテラスが気持ちいいかと思って」と呑気な彼は君らしくて可愛いよと笑ってくれる。それでも綺麗なオネエサンたちが行き来する店内で、自分だけが安っぽくて場違いのような気がして、店内を歩くのが嫌でずっとトイレに行きたいのを我慢していた。不機嫌と恥ずかしさと尿意で凝った盛り付けのコース料理の味なんて全くしない。無口になっていく私は子供で、彼は大人で、結局彼との不釣り合いを思い知らされた。
本当は不釣り合いなのは服装ではなく心の余裕だったのだけれど、私は気まずい思いを彼への恨みに転化したのか、彼と会う回数は減っていった。今でこそ、全員がハイブランドのワンピースを着込んでいる集まりに毛玉のつき始めた量販店のセーターで居合わせても、何が悪いのという顔をしていられるし、場合によってはこれこそ最新のSDGsと言い張ってその場違いを楽しみさえできる。面の皮が厚くなったととるか、自信がついたととるかは悪意の量によるけど、それ以前はたかがポリエステルの布一枚で、自分の価値が100万ドルにも1円にも思えた。これは私がそんな風が吹けば飛ぶような自尊心を最大限膨らましていた頃のお話。
プロフィール
鈴木涼美
すずき・すずみ|作家。1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中にAV女優デビュー。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了後、日本経済新聞社で5年半勤務。『おじさんメモリアル』『オンナの値段』など著書多数。近著に自身初の中編小説『ギフテッド』がある。
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