カルチャー

『DIGGER/ディガー』のアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督にインタビュー。

2026年10月11日

『DIGGER/ディガー』の公開を待ち侘びていた理由はたくさんある。まず『ミッション:インポッシブル』のトム・クルーズがらしからぬ容姿で主演を張っていることは大きいし、日本より1週間早く公開した本国では早くも賛否両論真っ二つというのも大変興味をそそられる。加えてトーキング・ヘッズの「Burning Down the House」が鳴り響く予告編が最高にかっこいいこともあるけれど、何より重要なのは、寡作な映画監督アレハンドロ・G・イニャリトゥの4年ぶりの新作だってことだ。前作『バルド、偽りの記録と一握りの真実』がNetflix作品のため一部劇場のみでの公開にとどまったことを踏まえると、この大規模な興行は『レヴェナント:蘇えりし者』や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』以来約10年ぶりと言っていい。早い話が、これはちょっとした祭りだ。

なお、本作は物語の構造上、なるべく情報を入れず、早めに映画館へ観に行くことをお勧めする。本記事では直接的な言及こそないものの、具体的な映画の内容に触れるので、未鑑賞の方は注意されたし! ということで、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督に話を聞いてきた。

© 2026 WBEI and Legendary

——この映画には驚かされました。鑑賞後に予告編を観直してみると、ファイナルカットには残らなかったショットが多くあることに気がつきます。手放すのが惜しかった映像もあったのではないですか?

アレハンドロ・G・イニャリトゥ(以下イニャリトゥ) いや……撮影中に僕がすごく気に入っていたけれど映画に残らなかった瞬間というのは、確かにあったと思う。でも、素材が持つ「狂気」のフレーバーを与えるだけなら、それでもいいと思ったんだよ。うん。

——つまり、未練はないと?

イニャリトゥ ああ、編集によって抜け落ちた瞬間はあるけど、僕はそれらが象徴しているものが好きでね。予告編を作った人たちは、その映像をほんの少しの胡椒のように使ってくれたんだ……映画本編にはないものだけれど。そして僕はそれを気に入った。たとえシーンの一部でなくとも、映画の「風味」のようなものを表現してくれていたからね。

——ある意味、ちょっとしたサプライズのようなものでしょうか。

イニャリトゥ その通り。フレーバーのようなもの……単なるトーンなんだ。それらはシーンではなくイメージ。とても速い。

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——面白いです。もうひとつ驚かされたのは、監督がジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』(1978)に再度立ち返ったことです。過去作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)でも影響は明らかだったと思いますが、あの作品の何が、それほどあなたを惹きつけるのでしょう?

イニャリトゥ 僕にとってだけど、あの映画は「人生が芸術を模倣し、芸術が人生を模倣する」ということを語っていると思うんだ。それは投影であり、鏡なんだ。そして、『DIGGER/ディガー』も鏡だ。

この映画はある意味、虚構と現実の間を行き来し、3つの異なる時間、異なる空間を行き来する。そして問題は、人生が演劇の舞台になってしまったということ。僕たちはほとんど……現実の生活が風刺になってしまった。世間の論調は騒々しく、権力者たちはピエロのようで、全てが非常にパフォーマティブ(演技的)だ。そして「人生の劇」の中で演じている人々は、「我々はこの人生の物語をどう語る?」「自分たち自身をどう表現する?」「どうやって自分たちを理解する?」と問いかけている。

つまり結局のところ、僕たちはキャラクターを演じているんだ。僕たちはマスク(仮面)を持っている。君だって、ジャーナリストとしてのマスクを持ってるだろ? 一人でいるときはそんな風じゃないはずだ。あるいは母親に対してのマスクがあり、ガールフレンドに対するマスクがある。そうやって僕たちは役割を演じるんだ。僕が『オープニング・ナイト』やこうした探究が好きなのは、それが今起きていることの表象だから。もし僕たちが人生を表現するなら、それはとても人工的なんだよ。その表現の中に自分自身をみることができるわけだからね。自分自身を認識し、自分自身を笑うことができる。演劇はそれを許してくれるんだ。それが理由だね。

——自分とジョン・カサヴェテス監督の間に共通項を見出すことはありますか?

イニャリトゥ いや、僕が彼を尊敬するのは、彼がやりたいことを彼自身のルールで、誰の許可も求めず、友人たちと共に、オリジナルの題材でやり遂げたからだ。彼はリスクを取り、自由だった。

そういう意味では、僕も常にオリジナルの素材で遊ぶことができて幸運だった。僕は決して許可を求めたことはない。僕は決してカサヴェテスではないし、彼は最も才能ある監督の一人だったと思うけれど、自由という点、そして自分がやりたいことをやるにあたっていかに自由を感じているかという点においては……それは僕が持つ特権であり、幸運だったということだけれど……何年もの間、同じ家族や協力者たちと仕事をしてこれたのは嬉しいことだ。自分が興味のあること、心を注ぎたいことに取り組む自由を持てたのは良かった。

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——自由な映画作りということでいうと、今回はビスタビジョンを用いて撮影が行われました。高解像度でワイドな画角の映像にはやはり独特の没入感があります。監督は過去作でも長回しを多用したりと、フレームの外側に広がる空間を立体的に意識させるような表現に執心してこられたわけですが、映画作家として、そうした没入感はどれほど重要だとお考えですか?

イニャリトゥ 僕が最初にビスタビジョンを試そうとしたのは、2020年に『バルド、偽りの記録と一握りの真実』を準備していた時。でも非常に高価で、やたら複雑で、予算が合わず諦めた。そして今回チボ(註:撮影監督エマニュエル・ルベツキの愛称)と僕は、この映画でそれを使う可能性について話し合ったんだ。今度は予算内だし、パインウッド・スタジオで撮影していたからね。そして何が美しいって……僕はこの映画のすべてのフレームを、超綿密に事前に計画したかったんだ。フレームの中に偶然のものは何もない。すべてのフレームで物語を語り、各フレームでキャラクターに文脈を与えたかった。そして、このフレームに巨大な被写界深度を持たせたかったんだ。前景、中景、後景の全てにピントが合っていて、観客が本当に映像の中を彷徨い、迷い込み、なんでも好きなものを見ることができるようにしたかった。僕が見せたいものではなくて、君たちが見たいものを見てほしかったから。

彼らが誰なのかをより理解できるようにしたかった。彼らはまるで、世界が破壊されていく最中に、劇場という壁の中で箱に入ったキャラクターのようなんだ。僕たちはこうやって世界の終わりを見届けるんだよ。ファッキン・スクリーン付きの僕らの箱の中で。彼らがどこに住んでいて、どこでこれが起きているのかを、君たちに理解してほしかったんだ。

ビスタビジョンは35ミリフィルムのネガの2倍のサイズがあるわけだから、非常に多くの情報が含まれるんだ。僕たちが求めていたような、美しく素朴な深度を得るにあたって、それらの情報が非常に役立った。ビスタビジョンを使うことに決めたのはそれが理由だね。

——なるほど。では、映画はより没入的であるべき、もしくは、映画にはより多くの情報が含まれるべきだと思いますか?

イニャリトゥ 場合によるね。物語による。すべての物語は異なるものを要請するんだ。それぞれの監督が物語に与えたいと思う感情やスタイルに依存する。だからルールなんてない。映画にはこうあるべき、あああるべきというものはないんだ。映画は水に似ている。必ずしも液体である必要はなく、氷になることも、蒸気になることも、川や海や雲になることもできる。映画は水のように、君が何を望むかによって、異なる形で現れることができるんだ。

——つまり、今回の物語が没入感を要請したわけですね。

イニャリトゥ 没入してほしいんだ。なぜなら明らかにこの映画では多くの考えが議論され、人々が話し合っているから。僕は君たちに、人々が話しているのを聞いているだけにはなってほしくないんだ。素晴らしいキャラクターたちによって多くの意見が交わされ、語られているというだけではなくて、それぞれの意見が内包する複数のレイヤーについて伝えるような世界……つまり映画的宇宙(cinematic universe)を持ってほしいんだ。それが僕の望みだよ。

© 2026 WBEI and Legendary

——では最後に、監督にとって「映画作りとは何か?」を教えてください。

イニャリトゥ 思うにそれは多分……自分の中で反芻しているアイデアや懸念、反省、思考、恐怖、そういったものの蓄積を、僕が吐き出す機会を得て、表現し共有できる最良の方法だと思うんだ。自分の中から取り出して共有する。同時にそれは、僕にとって生きていると感じるための方法でもある。ロケハンをして同僚たちと働き、それらの思考やアイデアを共有することは、とても……生き生きとしている。生きていると感じるんだ。コミュニティや目標との繋がりを感じる。そして、自分をさらけ出したり、自分の物語や他の何かを語ったり、心を込めてできる限りを尽くすことによって取るそのリスクは……それは……挑戦的で、困難だけれど、魅力的だ。生きていると感じさせるんだよ、疲労困憊するけれど。ただ目的を与えてくれる。共有するという目的を。それだけだな。それだけだと思う。そして僕にとっては他のやり方がないんだ。音楽でそれができたらよかったし、ミュージシャンになりたかったけど、僕は違う。僕にはこれしか方法がないんだよ。

——美しい回答です。映画作りにおいてモットーや哲学はありますか?

イニャリトゥ 「すべては過ぎ去る(Everything will pass)」。

——「すべては過ぎ去る」。

イニャリトゥ:それがあれば、君は常に大丈夫だ。なぜならね、もし悪いことが起きても、これは過ぎ去ると分かっているから。そしてもし君が成功や何かに非常に執着しているのだとしたら、これも過ぎ去ると考えなきゃいけない。落ち着け、とね。分かるだろ。

——素敵です。ありがとうございました。お会いできてよかった。

イニャリトゥ こちらこそ。バイバイ。すべてうまくいきますように。

プロフィール

アレハンドロ・G・イニャリトゥ

1963年、メキシコのメキシコシティ生まれ。キャリア初期に母国でラジオDJやCM監督などを務めたのち、長編デビュー作『アモーレス・ペロス』にて、カンヌ国際映画祭の批評家週間グランプリを受賞。映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でアカデミー賞監督賞を獲得すると、その後『レヴェナント:蘇えりし者』などを経て同賞を2年連続受賞し、一躍世界的な名匠に。その他の代表作に『21グラム』、『バベル』など。

インフォメーション

『DIGGER/ディガー』のアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督にインタビュー。

『DIGGER/ディガー』

石油採掘会社のCEO、大金持ちで傲慢な権力者・ディガー。彼の利益にしか目がない欲深い行動がきっかけで、地球滅亡の大ピンチに!! ディガーは大統領からその尻ぬぐいを命じられ、世界を救うべく立ち上がるが……果たして、彼は地球を救えるのか? そもそもこの男、信用していいのか⁉ 全国公開中。