カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/岡﨑乾二郎

2025年7月11日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2025年8月 940号初出

百科事典を読みふけった少年期。
文化が隆盛を極めた激動の時代、
好奇心の先に美術があった。

手塚治虫をきっかけに、
世界に関心を持った。

 東京都現代美術館で岡﨑乾二郎さんの個展が開催されている。東京初の大規模展示であり、1979年に作られた「こづくえ」から、粘土の原型を高精細スキャナーで読み取って拡大した彫塑作品まで、どれもが瑞々しい。岡﨑さんはどんな少年時代を過ごし、二十歳を迎えたのだろう。

「小学校1年くらいまでは中野区の若宮で育って、同じ敷地に家が3軒ぐらいあって親戚と一緒に住んでいました。僕は4人兄弟で従兄弟もたくさんいてみんな年上。家の前の道を占拠してちびっこギャングみたいに遊んでました。僕はちょっと特殊。周りから関係を切られるほどではないが、厄介な子供として扱われているというかね」

 いたずら好きな岡﨑さんは、小さい頃から単独行動が多かったという。

「いたずらというか、幼稚園に行くふりをして面白そうなことがあったらそっちに行っちゃう。焚き火して夕方まで過ごして、おやつの時間だけ幼稚園に顔を出すとかね。それで中退になりました(笑)。小学校の記憶もひとりで校庭のブランコに乗ってたり、団体行動をしていませんでしたね。まあ好奇心に従って行動してたんだと思うけど」

 やんちゃに遊ぶ一方で、美術への興味は持っていたんだろうか。

「自覚はあんまりないんですよ。ただ今思うと、親父は建築家だし母親も発明家で創造的な仕事をしてたから、家に画材も絵本も色々あって。あと今回の個展を見に来た兄貴が象の作品を見て教えてくれたんですが、僕はよくアニメの『狼少年ケン』とかに登場する動物を粘土で作ってたんです。その粘土の象を、母親が近所の人に見せて褒められてたと。そういえば作ったかなあって、すっかり忘れてたんですけどね」

 その頃、『鉄腕アトム』を見て手塚治虫さんの世界に触れたという。

「手塚治虫は先駆的にあらゆるものを題材に扱うじゃないですか。手塚治虫への憧れと、世界への関心の行き方とが一体化したんでしょうね。その頃は百科事典の訪問販売が流行っていて、買ってもらって一日中読んでいました。今で言うネットサーフィンみたいなものですね」

 10代を過ごした1960年代は、東京オリンピックがあり、ビートルズが来日し、学生闘争が活発化した激動の時代。中学に上がった岡﨑さんは、従兄弟が学生運動に浸かるのを目の当たりにし、カウンターカルチャーに目覚めていく。

「『ガロ』とか『COM』とか『あしたのジョー』とか白土三平とかを読んでました。何になりたいっていう自覚はないけど、色々と感受している中で自分がなれそうなのは漫画家かなあって。でも当時は川崎のぼるみたいな劇画的な作風が注目されて、手塚さんはもう古いみたいな感じでね。僕は手塚さんの漫画を見て育ったから、劇画は律儀すぎて駄目で。コマ割りから何から。だから自分の漫画は駄目かもと思ってました」

 そして駒場高校に進学。11時に駒場東大前駅に着くと、授業を受けずに東京大学の学食で昼食を取る。そして神泉まで歩きジャズ喫茶『ジニアス』やロック喫茶『ブラック・ホーク』に入り浸った。

「’70 年から’75 年くらいまでは停滞期というか、ドロップアウトとか田舎に行こうとか、世間に隠居願望が芽生えていたんですよ。音楽でいうとクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングとか、ジェームス・テイラーとか、そういうものと中原中也の区別がつかなくなってくる。いかに世の中を引き払うかっていう気分になってくるんです。終末思想が生まれたりね。細野さんが『HOSONO HOUSE』を出したけど、『終りの季節』とか、まさにその時代の雰囲気が出てると思います。そのあとパンクムーブメントが来て時代が少し元気になる。高校3年時の僕は勉強もしてないしもう道はないと思ってたけど、どん底からちょっと光が向いた感覚があって。信州大学か北海道大学に行って農業をやりながらカウンターカルチャー的な仕事を探そうなんてことを考えていたわけ。でも受験勉強なんてしてないから、美大に行ってみるかと」


AT THE AGE OF 20


多摩美時代の二十歳の岡﨑さん。彫刻と向き合う姿が素敵だが「このあと辞めます(笑)。辞める直前に記念に撮ったんじゃないかな」。短い大学生活の思い出といえば? 「学校に荒井由実さんがいましたね。すでにデビューしていて、年に1回くらい多摩美に来る。僕も同じくらいしか行かなかったけど(笑)。あと山の中で石を掘ってる先生がいて、手で掘るから指がかけちゃって『芸術は辛いんだよ~』とか言ってて。なんか一曲作れそうだなと思ってました」

多摩美を2年でドロップアウト。
横浜のBゼミで感じた繋がり。

 高校3年生で国立大学を受験したが、不合格。美大へ行くために予備校の御茶の水美術学院に通った。このとき優れた先生のもとで学び、彫刻が好きになったという。近くのアテネ・フランセ文化センターではゴダールの映画を上映しており、文化が溢れる御茶ノ水が楽しかった。そして多摩美術大学彫刻科に合格。八王子キャンパスは陸の孤島のように感じられ、岡﨑さんの足は遠のいた。

「もうダメだという感じでした。単にシニカルというかシニシズムになったわけではなく、もう少しいろんな人に触れ合えるところがないかなと思ったんです」

 音楽や本や映画のある御茶ノ水に比べ、東京郊外の八王子の風景は、二十歳の岡﨑青年には退屈なものに映ったに違いない。結果、2年生で退学。親を説得し、横浜にあるBゼミに入った。そこは画家で現代美術家の小林昭夫がスクーリングを行う、現代美術の学びと実践の場だった。

「今でいうカルチャースクールみたいなものかもしれないけど、当時は唯一の現代美術の塾といわれていて。面白いことを言ってたり提案したりしている話題の人を片っ端から呼ぶんです。『美術手帖』に載るような先生たち。そうそうたるメンバーだと思ったら、実際は食べられる人は一人もいません(笑)。そういうカッコいい人がたくさんいたんです。僕は高校では先生となんか真面目に喋ったことがなく、論破したりして、Bゼミでも半年くらいは今までの雰囲気でやってたんです。でも演習を始めたら褒められたんですよ。画家の宇佐美圭司さんに『お前は面白い、才能がある』と言われて、初めて僕の言ってること喋ってることが評価されるという経験をしたんです」

 過激派アジトに見えなくもないプレハブ造りのBゼミは、岡﨑さんにとって大切な学び舎になった。

「その頃の現代美術は、画廊に適当に土買ってきてぶちまけておけば作品になるみたいな安易なものばっかり。でもBゼミでは思考演習を大事にしていて、作品というよりもスケッチとかメモとか、とにかくアイデアを出すんです。生徒たちも、美術に興味を持ちながら経済学や生物学にも好奇心を持つ、いわゆる“ニューアカ”(1980年代初頭に日本で起こった人文科学、社会科学を軸とした潮流のこと。ニュー・アカデミズムの略)みたいな人が多かった。それが百科事典ばっかり読んでた僕には合いましたね」

 岡﨑さんは10代から社会の動向や人々の興味関心の先に敏感で、それでも大きな渦には迎合せず、自分に何ができるか窺っていたように思う。Bゼミは、二十歳の岡﨑さんを世界と繋げてくれた。

「時代の空気もパンクからニューウェーブに変わって、音楽でも映像でも過去のアーカイブを自由に編集できるようになった。二十歳まで未来の展望はなかったけど、ジム・ジャームッシュが出てきたりして、突然、世間に対して同世代的な繋がりを感じるようになったんです。そこで時代の雰囲気と対応したのかもしれないですね」

プロフィール

岡﨑乾二郎 

おかざき・けんじろう|1955年、東京都生まれ。1982年のパリ・ビエンナーレ招聘以来、様々な国際展に出品。主な個展に『かたちの発語展』(2014、BankART1929)、『視覚のカイソウ』(2019-20、豊田市美術館)など。現在東京都現代美術館で『而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here』開催中(7月21日まで)。

取材メモ

1960~1970年代の事件や文化をリアルタイムで体験した岡﨑さん。「三島が自決したときは学校にいて」なんてトピックが口をついて出てくるのでずっと聞いていたくなった。従兄弟の話にはあの音楽家が登場。「新宿高校に通っていた従兄弟が『今日学校で坂本(龍一)くんが校庭でアジって『みんな出てこい!』って言うから、みんな誘われて教室出てジャズ喫茶に行った』みたいな話をするわけですよ」。時代を感じる!