TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#2】JAZZと銭湯

執筆:岡美里

2026年1月21日

上野にて

冬、『燕湯』での出来事。
ここは朝6時オープンとパン屋よりも早起きの銭湯だ。その日は午後3時半という中途半端な時間に暖簾をくぐったのだが、狙いどおり浴室には誰もいない。しめしめ。
開店直後は46度の熱湯もこの時間になると、こなれた感じに温度が下がって首までつかることが出来た。
私は、ゆらゆらたなびく湯気が、かげろうのようにペンキ絵の富士山を霞ませるのをぼんやり眺めている。すると不意に「富士山は眺めるだけで、一生登ることはないだろうな」といった確信めいた考えが頭をよぎった。イメージだけの富士。それは私を少しだけ淋しい気持ちにさせた。

ややあって70歳前半とお見受けするおばさんが入って来て私の傍で湯に浸かり始める。そして言った、まるで旧知の友に話すかのように。

「今日はお父ちゃんと来たの。お父ちゃんが上野で商店街の寄り合いがあるって言うから」
私が頷くと、彼女は続ける。

「アタシは湯島に住んでいるのよ」
「お近くですね」
「そう。でもね、歳をとると一人で出歩くのって怖いこともあるの」
「今日は“お父ちゃん”と一緒だから、怖くないわけですね」
おばさんは満足そうに大きな笑顔を浮かべた。

ところで女湯はかくの如くのんびりしたものだが、仕切り越しの男湯は桶やカランの湯を使う「パカーン」「ざー!」という音が威勢よく響くせいで、かなりの盛況だと知れた。
おばさんは男湯の方をしきりに気にして、割合早く風呂にあがった。

遅れて私が脱衣場へ戻ると、おばさんは顔見知りをつかまえてまた何か活発に話している。が、その内容が耳に入って仰天した。

「ほら、アタシはお父ちゃんを亡くしたでしょ」

え! どういうこと? 一緒に来たのではないのか。まさかイメージだけの、妄想のお父ちゃん・・・
混乱しきりの私など意に介さず、おばさんは叫んだ。

「お父ちゃーん! いるゥ?」

脱衣場は浴場と同じく男女の間に仕切りがあるものの天井で繋がっているから会話は容易にできる仕様だった。

「あーい いるよォ」

ややあって、間延びしたとぼけた味わいのある返事が男の脱衣所からあった。

良かった。おばさんの頭がどうかしていたわけではなかった。
聞きかじった会話の断片を組み合わせて推測すると、おばさんは最初の夫と死別、10年ほど不安な独居暮らしを送ったものの、老境に差し掛かった折、新しい連れ合いに巡り逢った。今日一緒なのもその“お父ちゃん”第2号であるらしかった。

身支度を整えてからチラッと様子を伺うと、どうやら件のおばさんは日頃からノロケ話を繰り広げるようで、つかまったお婆さんは愛想笑いの裏にうんざりした色を浮かべていたが、それも含めて下町の平和この上ない光景に感じた。

外へ出てあらためて『燕湯』の全景を確認すると、城郭建築というのだろうか、格式高い割烹旅館のような佇まいだ。入り口のところには「湯がわいた」をもじった「わ」板といっしょに「登録有形文化財」と刻印された真鍮のプレートが鈍く光っていた。しかし私としては、先の「無形文化財」とでもいうべき地元の他愛のない閑話を、記憶に登録しておきたい。

さて、喉の渇きを癒しにいこう。そしていい音を聞こう。
そういう時は湯島のMUSIC BAR 『道』を目指す。

地下鉄・湯島駅のすぐ隣の雑居ビル3階に『道』はある。ウォーホルを始めアートピースがいいリズムで部屋の壁を埋めている。到着してカウンターに座り、ポテトサラダや檸檬ソーダを注文。
ちょうど『日比谷野音の小沢健二 オフィシャル海賊盤』が流れていた。こっそり録音したテープをそのままレコードに焼いただけといったような、声のかすれ、テンポのずれ、マイクのハウリングまで入った恐ろしく正直なアルバムだった。
隣に座っていた男性が「このオザケンは池袋で買ってきたばかり」と言っていて、聞けばここのオーナーということだった。
渡りに船と「何かJAZZをかけてもらえますか」とお願いしてみたら
「うちはあまりJAZZはかけないのだけれど」
と前置きをしたあとで、レコード棚からブリジット・フォンテーヌ『ラジオのように』を抜き取った。向田邦子ドラマで流れることでもお馴染みだ。不穏なムードながら、同時に勇気が湧いてきて学生時代よく聴いていた。
JAZZの定義をビバップやスイングとすると外れるが、フリージャズバンド「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」との協働作品だから、JAZZではある。
アルバムを通しで聴くと、さまざまな楽器とブリジットの囁くような声が絡み合っては離れる、スリリングで、静かな迫力に飲まれる一枚だ。
譜面の正確さよりも、生きていることを優先した音楽。
銭湯での会話、桶がタイルを打つ反響音、アメ横の呼び込み、そういったものも、すべてが予定調和しないその場限りの音のセッションだとすると、この日、上野に降り立った瞬間から、私はJAZZ的な音空間に身を浸していたことになる。

プロフィール

岡美里

おか・みさと|両国生まれの美術作家。横顔のポートレイトを描くことをライフワークとする。また「歩きながら考える」を設立の旨とする“The Walking Nerd”コア・メンバーとして、町歩き、町観察に精を出す。

2026年は東京、広島、島根にて、横顔ポートレイト・オーダー会を予定。
1/24〜2/7 代官山『SISON GALLERy』にて『私たちは非常にゆっくりと蒸発している』展

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