カルチャー
平野啓一郎さんに聞いた、今月の副読書。
Vol.1『文学は何の役に立つのか?』
2025年12月6日
「副読書」とは教科書の補助的教材として用いる資料集など、二次的に参考にするための書物のこと。本連載では毎回1冊の本を取り上げ、併せて読みたい「副読書」を著者が自らレコメンド! 理解を深め世界を広げる〈副〉読書のススメ。
今月の本
『文学は何の役に立つのか?』平野啓一郎
文学は私たちの人生や、この社会にとって何の意味があるのか。21世紀の日本文学界を牽引してきた著者による文学・芸術にまつわるエッセイ集。表題作「文学は何の役に立つのか?」の他「ゼロ年代のドストエフスキー」「『オッペンハイマー』論」など、コロナ禍直前から現在に至るまでの7年間に、様々な媒体や講演会で発表してきた論考やエッセイなどがおさめられている他、大江健三郎や古井由吉らへの追悼文も収録。(岩波書店)
平野啓一郎さんが選んだ「副読書」3冊
森鷗外が1913(大正2)年に発表。江戸時代初期に肥後藩で起きた実際の事件が題材。肥後藩主・細川忠利が亡くなった際の家臣らの殉死を巡り、殉死の許しが下りなかった阿部弥一右衛門と、その一族の悲劇の顛末を描く。明治天皇崩御の際の乃木希典の殉死という世相を反映して執筆された。(岩波文庫)
『罪と罰』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』のフョードル・ドストエフスキーの5大長編作品のうちの一つ。純真で無垢な心を持った青年ムイシキン公爵と美貌の女性ナスターシャをめぐる物語を中心に描かれる、波乱の群像劇。1951年には黒澤明も映画化。亀山郁夫訳。(光文社古典新訳文庫)
2024年にノーベル文学賞を受賞した著者による2018年の作品。生後すぐに亡くなった姉を巡り、ホロコースト後に再建されたワルシャワの街と朝鮮半島の歴史が交差する。雪、骨、灰、白菜……様々な「白いもの」を描く65の物語を通して、死者、生者に対する深い思索が行われる。斎藤真理子訳。(河出書房新社)
行きつけの書店がなくなるらしい。街の景色が変わると、社会の変化をリアルに体感する。出版まわりの暗い話題や予測が多すぎてもはや何も感じなくなっていたけれど、やはり通説どおり斜陽らしい。それにしても、本は読みたいから読むものだし、わざわざ「何の役に立つのか」と問われると不思議な気持ちになる。しかも本の側から。どんな価値があるのか、とあえて自問自答しているようでもある。閉店の決まった書店に平積みされたそれは、文学界からの「SOS信号」にもみえた。著者の平野啓一郎さんに「役に立つ」という言葉の意味を改めて伺った。
「この社会では、あらゆることにおいていかに“役に立つか”が求められていますよね。人間も労働者として組み込まれる以上、金儲けの役に立つのかをジャッジされる。しかし対人関係のレベルで考えると、誰かの“役に立つ”ことは自己承認のきっかけにもなる大事な機会。そんな言葉の両義性を今だからこそ考えたいんです」
「役に立つ」ことが求められる“今”の問題を文学に適用したのはなぜか。
「ボードレールという詩人がとても好きなのですが、彼は芸術家が表現をする際に“同時代性”を持つことを大事にしていました。私も同感で、不確かな時代だからこそ、時代との関わりを失ったら、文学は終わりだと思うんです。文学では、まだよくわかっていない同時代、つまり現代のことや、まだ言葉になっていない感情を探るのが重要な仕事だと思う。その点が過去に書かれた言葉から答えを生成するAIとは異なります。現代社会で何が起きていて人が今、何を感じているのか。AIも予測できない“今”の不確かさを言葉にすることに取り組んでいたいのです」
その意味で、本書には同時代に並走した文章群が凝縮されている。
「これはエッセイですが、本来文学は作家が書くのも、読者が読むのも時間がかかる。出版のサイクルはファストではないし、社会の流行を最速で追えず、すぐに“役に立つ”ことを想像しづらいジャンルです。でも、数十年、数百年、千年単位のスケールで、人間が書物の形で残してきたものを通して思考することができる。そんな良さがあるんです」
書物を通して長い人類の歴史や価値観に触れる。平野さんが本書で読み解いている森鷗外の思想についても、そんな「文学」の面白さが表れている。
「私が敬愛する森鷗外は、シブい作家なんです。自然科学の研究者でもある鷗外は、一作一作の物語の中に緻密な条件設定を施し、人間がある条件下でどう振る舞うのかを“実験”するような作風。人の自由意志による決断とは無関係に政治制度、イデオロギー、人間関係、偶然に翻弄される主人公の姿が描かれる。人間の身体や考え方は環境要因で変化すると捉えるわけで、いわゆる“自己責任論”とは対極的です。武士道に縛られた人間を描く『阿部一族』は特にそのエッセンスが巧みに表現されています。主人公は、上司から“なんとなく”嫌われているせいで殉死の許可を得られなかった。にもかかわらず周りからの誹謗に耐えきれず勝手に切腹してしまう。結果、阿部家は悲劇的な終焉を迎えます。他者から好かれるかは、本人の努力ではどうにもできない部分が大きい。それなのに、他者の私的な好悪の感情やそれによる評価が人生を左右することは現実においても多々あります。困難に超人的努力で立ち向かい、自ら夢を掴むようなヒロイックな物語とは正反対で、現代にも通用する問題提起だと思うんです」
平野さんは続けて「情報過多、スピード感のある世の中だからこそ、じっくり時間をかけて本を読むことで、冷静に今の時代を見つめ考えられるようになる」と語る。文学は思考のトレーニングにもなるのだ。「難解なイメージのあるドストエフスキーの小説こそ、鍛錬として読んでみてほしい」と言う。
「『白痴』はどんな話なのか整理しづらく、読後は何ともいえない妙な味わいが残る。登場人物たちの心理も複雑に描かれ、多様な解釈と議論が開かれている。ドストエフスキーの中でも最も“文学らしい”小説といえるかも。最新の情報が詰め込まれ、それを活用し消費するためだけに摂取するような目的の本のあり方と正反対。主人公・ムイシキンが精神的に壊れていくのですが、そのプロセスとして途中にほとんど無意味に近い冗長な会話があって、正直、読むのはかなり辛い。でもそれが主人公の崩壊に説得力を与えている。本編からの脱線や自由な文体を含めて、小説全体を覆う不思議な魅力がたくさんあるんです」
難解で不思議な面白さに触れられるのも文学の魅力。昨年ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンによる『すべての、白いものたちの』もそんな一作。
「この本は韓国の民主化運動における悲劇『光州事件』を題材にした『少年が来る』の次の長編。自国の歴史に心血を注ぎ向き合い、結果として精神的にダメージを負った著者が、どうやって立ち直るかを主題にした私小説的な作品です。生後すぐ亡くなった姉という最も近い人間の死と命について考え『死んだ他者のため』に自分の恢復を目指す。その“元気になる方法”は一般的な論理には収まらない、不思議な経路を辿るものですが、小説だからこそ説明可能だと言える。文学でしか表現できない、理屈では解けない人間の心の捉え方に魅力があります」
文学を通して精神的困難を癒やされ、新しい価値観へと開かれることがある。だからこそ「文学は現実に対して何かはたらきかけたり、実際に役立つことがある。文学の力をそういうところまで突き詰めて考えたいんです」と平野さんは言う。
「人類の長い時間を旅する文学。読んでいけば、新たな出合いや価値観が中にゆっくり混ざり合っていくはず。感性が豊かになる。その経験の楽しさを味わってほしいです」
プロフィール
平野啓一郎
ひらの・けいいちろう|1975年、愛知県生まれ。京都大学法学部在学中に投稿した『日蝕』により’99年に芥川賞受賞。近著に『本心』『富士山』『三島由紀夫論』など。
Official Website
https://k-hirano.com/
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