カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/大貫憲章

2025年5月20日

photo: Takeshi Abe
text: Keisuke Kagiwada
2025年6月 938号初出

名もなきロック青年が、
音楽評論家として頭角を現し、
伝説のイベントを始めるまで。

〝たまたま〟が重なって、
 音楽評論家の道へ。

「ロックで踊る」をコンセプトにしたクラブイベント『ロンドンナイト』が、新宿の『ツバキハウス』で誕生したのは、1980年6月のこと。のちに数多くの伝説を生み出すことになるそのイベントの主催者は、音楽評論家の大貫憲章さんだ。当時29歳だった大貫さんは、ほんの10年前まで名もなきロック好きの青年に過ぎなかったというのだから、そのスピード感にはクラクラするしかない。しかし、本人はいたって冷静にこうつぶやく。

「自分の人生は〝たまたま〟の連続でした」

 実際、大貫さんが物書きとしてデビューするきっかけは、浪人中に知人女性2人から奇妙な誘いを受け、たまたま乗っかったことに起因する。その誘いとは、とある出版社が新しい雑誌を創刊するにあたり、六本木にある準備室でスタッフ募集をしているから、その面接に付き添ってほしい、というものだった。

「暇だったから付いていったんですよ。自分としては単なるお供のつもりだったんですが、待っていたら編集部の方が声をかけてくれて、音楽の話でもしたんでしょうね、最終的に連絡先を教えることになって。そのしばらく後ですよ、『レコード紹介の記事を作るんだけど、書いてみない?』って電話がかかってきたのは。面接を受けた彼女たちには音沙汰がなかったのに(笑)。自分としてはそれまで文章で何かを表現しようだなんて思ったことはなかったけど、たまたまやってみたら、なんかトントンとことが進んでいったんです」

 その新雑誌こそ1970年、つまりは大貫さんが無事に大学に入学した年に平凡出版(現マガジンハウス)より創刊された『アンアン』に他ならない。以後、編集部に足繁く通うようになった大貫さんは、ある男性から声をかけられる。

「ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』の詞を書いた松山猛さんでした。当時はしょっちゅう『アンアン』編集部にいらっしゃっていて、ありがたいことに自分にもよく話しかけてくれたんです。そんなある日、『これから音楽雑誌の人に紹介してあげるよ』って連れていってくれたのが、『ミュージック・ライフ』の編集部。そこで最初に書かせてもらったのがエマーソン・レイク・アンド・パーマーのファーストアルバムについての文章で、ちょうど二十歳くらいの頃ですかね。ちなみに、本名は漢字そのままに〝ノリアキ〟と読むんですが、〝ケンショウ〟と読ませることにしたのも同じくらいの時期。松山さんに紹介していただいた東芝レコードの担当者の方に言われたんです。『読めないから〝ケンショウ〟にしたら? ショーケンみたいでいいじゃん』って(笑)」

 あまりの順調っぷりに忘れそうになるが、まだこのときの大貫さんは大学生だ。同級生たちが就活でざわつきだす時期は、どう過ごしていたのだろう。

「大学にいた4年間は、原稿料で普通にバイトしている同世代よりは稼げていたと思います。だから、このまま音楽評論家として食べていこうかなって思いはあったんですが、父親はやっぱりどっかに就職してほしいって言うんですよ。だからまずは平凡出版に採用してもらう道を探るじゃないですか。だけど、編集者の方に聞いたら、『お前はもう自分でやっているんだから、今更社員になってもいいことないぞ』って冷たくあしらわれまして(笑)。じゃあってことで、ある広告代理店に入ることにしたんです。ただ、自分はクリエイティブで入りたかったんですけど、配属されたのは事務職で、もう本当につまんなかったし、給料も安かったんですよ。その間も原稿を書いていたけど、そっちの稼ぎのほうがよかったですから。これじゃあどっちが副業がわからないなってことで、10か月で辞めて、フリーランスとして活動していくことにしたんです」


AT THE AGE OF 20


写真は1974年、初来日したアイルランド出身のギタリスト、ロリー・ギャラガーとのツーショット。取材した際に撮影したものだそう。その前年、初めての海外旅行でロンドンを訪れた大貫さんは、街に貼ってあったポスターを通してとあるバンドを知る。レコードが売り切れで音源を聴くことは叶わなかったものの、ピンとくるものを感じた大貫さんは、帰国後に猛プッシュ。それがのちに日本でも大ブームを巻き起こすことになるクイーンだったそう。

  クラッシュとの出会いと、
 『ロンドンナイト』誕生秘話。

 1976年夏、若手音楽評論家として注目を集めつつあった大貫さんは、ロンドンに降り立つ。海外の雑誌や新聞を通して「パンク」という見慣れない言葉を目にするようになり、いてもたってもいられなくなったからだ。

「現地で情報収集していたら、『パンクフェスティバル』ってイベントの告知が見つかって、クラッシュとセックス・ピストルズが出演するってことだったんで、行ってみたんです。到着したときには既にライブが始まっていて、『これがクラッシュかぁ』と思いつつ、音楽自体はそこまでよくないんですよ。ステージではメンバーの一人が、ベイ・シティ・ローラーズの人形かなんかを振り回していて、噂に聞いていたパンクっぽい感じはあったんですけど。ただ、次のバンドはカッコよくて、『セックス・ピストルズ、最高じゃん』って感じでしたね。まぁ、見ている間から違和感はあったんですよ。メンバーは5人いるし、ギターも2人いるけど、自分が知ってるピストルズは4人組で、ボーカルはギター持ってなかったから。でも、当時はまだクラッシュもピストルズもレコードを出していなかったから、音楽では判断しようがない。とにかく情報がなかったから、『まぁ、そんなもんか』と納得して帰ったんですが、こっそり録音していたんで、のちにピストルズの『勝手にしやがれ』がリリースされたときに聴き比べてみたら、まったく別ものだったという(笑)」

 実は2番目に見たバンドこそがクラッシュで、最初のは無名のバンドだったのだ。どうやらピストルズは大貫さんが帰った後に登場したらしい。

「方々で『ピストルズを見ました』って吹聴しちゃっていたんで恥ずかしかったですね。でも、5人組のクラッシュを見れた人なんてほとんどいないんで、自分にとっては意味ある体験でした」

 そのクラッシュは、『ロンドンナイト』誕生の立役者と言っても過言ではない。なんせ1980年、クラッシュのツアーに同行取材することになった大貫さんは、ライブ前にステージに登場し、レコードを回すDJという存在を、初めて目の当たりにしたのだから。 

「とにかくカッコよくて、帰国後はすぐに真似しようと決意しました。それで当時『ポパイ』で編集者をやっていた知り合いに相談したら、『僕が知っているお店でできるかもしれません』ってことで紹介してもらったのが西麻布の『トミーズハウス』ってバー。そこでまず始めて、2か月後くらいかな、『ツバキハウス』の佐藤俊博さんに『うちでやってもらえませんか』って声をかけられたのは。という流れで本格始動したのが『ロンドンナイト』です。当時は『ロックで踊る』なんてイベントはなかったから、最初は苦戦しましたけど、半年くらいしたら客足も伸びてきました。まぁ、それもたまたまですよね。とにかくいろんなところに行って、たまたま知り合った人と話しているうちに、次の扉が見えてきて、開けてみたらまた次の扉があった……自分の20代は、そんな感じでした。だから、とりあえずどこでも行ってみるのが重要かもしれません。でも結果は期待しない。ダメでもともと。ダメだったら声かけてきた人が悪いんだから(笑)」

プロフィール

大貫憲章

おおぬき・けんしょう|1951年、東京都生まれ。自身の半生を語り下ろした書籍『HISTORY OF KENSHO ONUKI 大貫憲章 回顧録 人生夜話』が発売中。また、ラジオDJとしての顔を持ち、現在は『Kenrocks Nite – Ver. 2』がinter FMで放送中。

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取材メモ

『ロンドンナイト』は、のちに有名人となる数多くの若者たちが通っていたことでも知られる。なかでも注目すべきは、藤原ヒロシさんだ。「ヒロシはかなり初期から来てくれていましたね。彼は『ロンドンナイト』で開催したファッションコンテストで優勝して、賞品としてもらったフライトチケットで、初めてロンドンに行ったんですよ」と大貫さん。つまり、『ロンドンナイト』がなければ、裏原ムーブメントも興ってなかったかもしれない。