TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#4】クリスマスツリーを買う、胡桃のお酒と心の糧について。
執筆:田口かおり
2024年12月31日
先日、京都の家にクリスマスツリーを買った。ここのところずっと、年内が締切の仕事を猛然と片付けていく日々を過ごしていた。すべてがどうにか間に合ったら、今度は年始締切の仕事に取りかからなくてはならない。しかし、その前にはなにがなんでも黒豆を煮なくてはいけないし、数の子も仕込まなくては。部屋の片隅の、ピサの斜塔よろしく絶妙のバランスで積み上がって傾いている本の山も片付けないことには新年を迎えられない、と、あれこれ考えているうちに頭のなかが火照ったようになって、気づいたら160cmのクリスマスツリーを注文していたのである。こんなに大きなツリーが家にあるのは久しぶりで、胸がときめく。この種の「大物」を買うということは、この先長くひとつところに留まることを覚悟したしるしでもあるのだなあ、としみじみ思う。今の勤務先に落ち着くまでは、いつでも身軽に動けるように、ということを第一義にしていたので、欲しくても買わないように戒めていたもの(たとえばアンティークのチェストなど)が沢山あったのだ。
そんなわけで、光る木を眺めながら仕事をしている。南イタリアに住んでいる友人が毎年送ってくれる胡桃のリキュールをお供にシュトーレンを薄く切って、透明なつららや金銀のボールオーナメントがくるくるまわるさまを眺めていると、焦燥感が薄れて、今年もなんとか無事に生きてこられたことの喜びが湧いてくる。胡桃のリキュール、「ノチーノ」というお酒は、まだ青くて若い胡桃を収穫してグラッパに漬け込んでつくる。はじめてこれを飲んだのは23歳の時。黒々とした見た目に恐れをなしつつ口に含んだのだが、シナモン、クローブ、カルダモン、檸檬の皮の華やかな風味と胡桃の渋甘さがなんともいえず美味しくて、以来、この艶っぽい飲み物がクリスマスの定番になった。
ノチーノを私に勧めてくれたのは、件の友人のおじいさまである。大きな庭で収穫した果物や野菜を使ってとびきり美味しいものをあれこれ作る、魔法使いのような人だった。日本を離れて異国で生活する私を不憫に思ったのか、友人とおじいさまは各地の郷土料理やお菓子、お酒をたびたびふるまってくれて、私は彼らのおかげでイタリア料理にずいぶん詳しくなった。おじいさまが亡くなって随分長い時間が経つ。最後に直接いただいたノチーノには手がつけられず、大切に置いてある。
前々回の連載で、旅に出るたび亡くなった人々のことを思う、という話をしたけれど、クリスマスもまた、彼らのことを考える時期である。そもそもクリスマスにノチーノを飲みたくなるのは、幼い頃に亡き母と毎年一緒に作っていたスパイスとナッツがたっぷり入ったケーキの味を思い出すからなのだと思う。学生時代にアメリカに留学していた母がホストマザーからレシピを伝授されたケーキは、そのまま我が家のクリスマスのお菓子として定着して、毎年、母とケーキを焼くのが約束事になっていたのだ。幼稚園の頃の私は、胡桃を砕く係、型に入れたケーキを「とんとん」床に落として生地を落ち着かせる係、焼き上がったケーキに刷毛でブランデーを塗る係を兼任していた(つまりたいした仕事はしていなかった)。だからこそクリスマスの時期は胡桃の香りを思い出すし、型を床に落とす仕事を任された時のはちきれそうな誇らしさは、今も忘れられない。
2024年は、多くの作家が旅立った一年でもあった。舟越桂、フランク・ステラ、三島喜美代。先日、国立国際美術館に行って、展示の一角で物故作家の作品を巡り見るなかで、彼らの仕事に出会いなおした。フランク・ステラの絵画にうっすらと走る鉛筆線に目を凝らしながら、制作の息遣いに時を超えて耳を澄ませる。2020年に逝去した菊畑茂久馬のごつごつと隆起する絵画層の圧倒的な迫力を前に、これだけの存在感、これだけの物理的厚みに心奪われる自分が今生きていること、一方でその作り手がこの世にもういないことの不思議と距離を思う。
生前の母が私に繰り返し言っていた言葉に「辛いことがあったら美しいものを見なさい、聴きなさい。美しいものは変わることがないし、あなたの心身を支えてくれるから」というものがあった。保存修復に携わるようになって、美しいものも物理的には変化していくことがあるのだと──それが目に見えるかたちであれ、そうでないかたちであれ──私は経験から知るようになるのだが、美しいものは変わらないのだ、そしてあなたの心身の糧となるのだ、という、美術や音楽に託された母の信頼こそが、大切な人を見送った後も生き続けるこの世での、悩み多き日々のよすがとなっている。
4回のエッセイを読んでくださってありがとうございます。皆さまにとって、2025年が美しいものとの出逢いに満ちた幸せなものになりますように!
プロフィール
田口かおり
たぐち・かおり|1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は保存修復史、修復理論、美術史。東海大学教養学部芸術学科准教授などを経て、現在、京都大学人間・環境学研究科総合人間学部准教授。近現代美術の保存修復や調査のほか、展覧会コンサバターとしても活動中。著書に『改訂 保存修復の技法と思想——古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(平凡社ライブラリー)『絵画をみる、絵画をなおす 保存修復の世界』(偕成社)など。
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