カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/堀内健

2024年9月11日

photo: Takeshi Abe
styling: Daisuke Kamii (demdem inc.)
hair & make: Satomi Tazawa
text: Neo Iida
2024年10月 930号初出

あの頃の友達との笑いを、
大人になってもやり続ける。
テレビスターに憧れた、永遠の中学生。

パンツ¥16,280(rehacer/Turtle inc.☎06·6766·4100) スニーカー¥22,000(New Balance/ニューバランスジャパンお客様相談室☎0120·85·7120) その他は私物

恥ずかしいけど目立ちたい。
小・中学校時代が笑いの原点。

 冠番組での活躍はもちろん、ゲスト欄に「堀内健」とあると俄然期待してしまう。急に二重になったり、バク転をしたり、♪ホトシュールと歌い出したり、奇想天外で目が離せないからだ。20代からテレビに出続けるベテランなのに、「ホリケン」と親しみを込めて呼べる親近感。一方で『IPPONグランプリ』で過去4回の優勝経験を持つ実力者でもある。魅力の塊みたいな堀内さんだけれど、どんな二十歳の頃を過ごしたのだろう。経歴を紐解くと、1969年の横須賀生まれ。教師の両親と妹の4人家族で、想像どおり活発に育ったという。

「父親が怖かったから家ではおとなしくして、学校ではっちゃけてましたね。変なことをやって目立つことに生きがいを感じてました。返事を大きくするとか(笑)」

 テレビとラジオに勢いがあった’70~’80年代。堀内さんも『オレたちひょうきん族』を見て友達と「あれ見た?」と盛り上がり、中学に上がると『お笑いスター誕生!!』でブレイクしたとんねるずに夢中になった。

「僕だけが目立ってるわけじゃなくて、クラスみんなが仲良くて、一緒にふざけてて。自分たちだけがわかる学校のネタもありました。特に仲のいい4人グループのヒロちゃんが最高に面白くて。ギャグもオリジナルだし、授業中にマンガとか描いちゃうし」

 中学卒業後、ヒロちゃんは長野の学校に進学して離れ離れに。高校生活も楽しかったけれど、友達は思春期を迎え、小・中学校の頃のようなノリはあまり生まれない。堀内さんの中である思いが膨らんでいった。

「中学時代みたいなことを、大人になってもやりたいなと思ったんです。それで(明石家)さんまさんやとんねるずさんに憧れたのもあったし、テレビに出たいなと。でも今みたいに養成所もないから、方法がわからない。それに『健がお笑いかよ』って言われる気がして誰にも言えなくて。目立つのは好きだけど、恥ずかしがり屋で前に出るタイプじゃなくて、ずっと隠してました」

 兎にも角にも東京に出なければと、大学を受験したが、全落ち。浪人生になるも、予備校の夏期講習を勝手にキャンセルし、返金されたお金はパチンコで使ってしまった。結局大学は諦め、市ヶ谷の東京観光専門学校(当時)へ。なぜ観光?

「『男女7人夏物語』で、さんまさんがツアコン役でカッコよかったんです。それでお笑いとツアコンの二択で悩んで(笑)」

 と言いつつ、卒業後は観光の職には就かず、渋谷の東横のれん街の『モロゾフ』で準社員のような形で働くことに。それで、阿佐ケ谷の青梅街道を渡った先の、家賃2万4000円のアパートを借りた。二十歳の堀内さんは、念願叶って東京で一人暮らしを始めたのだ。でも、ここまでお笑いへのアプローチは何もしていないような……。

「そうなんですよね(笑)。本気で何とかなるだろうと思って、ブラブラしてました。でも21歳になった頃かな、自分で何かやんないとダメだって気づいて。それで『デビュー』ってオーディション雑誌を見て、芸能事務所に片っ端から電話したんです」

 ヒロちゃんが学校でやってたことをやれば売れる、と思い一緒にやらないかと声をかけたが、「俺はいいよ」と断られ、ひとりでオーディションを受けに行った。

「人前でネタなんてやったことないから、足が震えちゃって。プロダクション人力舎、太田プロダクション、3つ目の渡辺プロダクション(現ワタナベエンターテインメント)でようやく慣れて、引っかかりました。披露したネタですか? 『1人で胴上げされながら浣腸される人』とか『自動改札を突破する男』とか(笑)」


AT THE AGE OF 20


泰造さんとフローレンスを結成した21歳の頃に撮影した宣材写真。「自分で言うのもなんですけどルックスがいいって思われて、“第2の中山秀征”って感じで採用されたんです。でもダンス、お芝居、発声とレッスンを外されて、最終的に泰造がいるお笑いのグループに入れられて」。確かにキュートな顔立ち。学生時代はモテたのでは? 「全然! 『それでよぉ』とかオラオラしたほうが絶対モテるのに、変なことやって女の子をチラチラ見る、しかできなかったから。幼かったですねえ」

コンビか、トリオか。
本気で悩んだ運命の分かれ道。

 渡辺プロダクションのオーディション会場には、やけに声の大きな若者がいた。

「それが(原田)泰造です。地元の友達とパープルンというコンビを組んで入ってきていて、役者の養成所にも通ってたから声が出てたみたい。同期で仲も良くて、1週間に1回のネタ見せに通いました。そしたらある日、泰造の相方が辞めることになったんです。じゃあ二人で1回ネタ作って、駄目だったらやめようって組んだんですよ。そこから今まで続いてます(笑)」

 コンビ名はフローレンス。運命かと思うくらい、二人のバイブスは合っていた。

「これまで泰造みたいな人っていなかったんですよね。僕以上に知らない人に話しかけるし、地元の友達とは違う面白さを持っていて。夜通し『朝まで生テレビ!』のパロディをやり合うとか、僕がミルク、泰造がクルミってキャラで妖精ごっこするとか、ネタ作り関係なく一緒にいて。中学の日々が戻ってきた感覚があったんです」

 コンビを組んで都内のライブを回り、テレビ朝日の深夜のネタ番組にも出演した。

「お笑いライブブームが来始めて、僕たち、ライブで少しは名前も知れてきたし、初めてのテレビもすっげえウケて、いい感じだぞと。でも勝ち抜き番組で高校生のコンビに負けて、すっげえ落ち込んでたときに、泰造が『もうダメだ。潤ちゃん入れよう』って言い出して。青天の霹靂ですよ」

 二人より1年早く渡辺プロダクションに所属した名倉潤さんは、ジュンカッツというコンビを組んでいた。当時の堀内さんが抱いた印象は「なんでこの人、売れてないのにこんな偉そうにすんだろう(笑)」。確かに先輩の加入は緊張する。

「泰造は、ツッコミがいれば笑いどころができるとか、色々考えたんでしょうね。でも僕は人生でいちばん悩みました。泰造が大好きだったし、ずっと二人でやるのがベストだったんです。先輩だし、気を使うし、もう自由にやれなくなっちゃうのかって。ヒロちゃんに相談したら、『それぞれいいほうと悪いほうを書き出して、いいほうが多いのを選べばいいじゃん』って。それで確かに3人がいいってわかったんです」

 24歳でネプチューンを結成し、26歳で人気番組『ボキャブラ天国』に出演。以来、途切れることなくテレビに出続けている。

「僕も泰造も潤ちゃんも“お笑い芸人”じゃなくてテレビスターになりたかったんですよ。ドラマも歌もお笑いもやる、みたいな理想がバーンとあって。でもそのうち、あれも無理、これも無理、ってわかってくる。20代はそんな感じだった気がします」

 でも29歳で『笑う犬の冒険』が始まった頃は、毎週コントで大活躍。思い描くお笑いができていたのでは?

「いや、まだまだって思ってましたよ。僕は自分がやりたいことをやると変な方向に行くし、人の意見を聞いて、プロデュースしてもらうほうがうまくいく傾向があるみたい。それに、やりたかったお笑いが今日できても、次の日にはできない。その繰り返しなんですよ。その日その日が精いっぱいだから、今も正解がわかってないかも」

 あのキャラは自分が作ったもの、と言い切らず、いろんな意見を聞いて作った、と言えるのが、堀内さんの強さだと思った。二十歳の頃の自分は、今どう見えている?

「いやあ羨ましいです。何とかなるって本気で思ってましたもん。ポジティブっていうか、未来が広がってた。あの頃もっと頑張ってればって思うこともありますよ。でも純粋にテレビに出たい! と思って、出られたわけだし。うん、楽しかったですね」

プロフィール

堀内健

ほりうち・けん|1969年、神奈川県生まれ。’93年に名倉潤、原田泰造とネプチューンを結成。『ネプリーグ』(フジテレビ系)、『しゃべくり007』(日本テレビ系)、『ホリケンのみんなともだち』(テレビ朝日系)などに出演中。YouTubeで「やっぱりホリケンちゃんねる」配信中。

取材メモ

YouTube「やっぱりホリケンちゃんねる」の「昭和の中学生」や犬の散歩動画を見ていても思うけど、自由奔放で枠に収まらないのが堀内さんの魅力。撮影中も「食べていい?」とパンを頬張ったり、「これはよくヒロちゃんがやっていたポーズ!」と阿佐ケ谷駅前でギュンギュンに動いたりと、終始エンターテイナーだった。一撃必殺の笑いを繰り出す高い戦闘力の高さがあるのに、謙虚で、ずっとニコニコ楽しそうで、華がある。これがテレビスターか! と震えました。