カルチャー
感受性スーパーエリート?ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』を噛み砕く
文・村上由鶴
2022年5月31日
text: Yuzu Murakami
第5回目となり、だいぶ今更感がありますがこの連載のタイトルは「おとといまでの私にわからせるための写真論」といいます。
「おとといまでの私にわからせる」というのは、わたしも学んだり考えたりしながら書いてますよ、というニュアンスをわたしなりに込めた言葉なのですが、最後の「写真論」というのは、耳馴染みのない人も多いのではないかと思います。
「写真論」とは、文字通り写真について書いたエッセイや論文などのことを言いますが、ひとつ特徴を挙げるとするならば、「写真とは何か」について考えて書かれた言葉ということができるでしょう。
これは私見ですが、写真家や写真作品について書いたものであっても、「写真とは何か」という問いが問われない、写真が説明不要の「当然の存在」のように書かれているようなものは「作家(写真家)論」や「作品論」となると思います。
つまり、「写真ってこういうものだよね」というところに力点が置かれているかどうかが写真論と他の文章を分けるポイントです。また、作家論であり同時に写真論であるということももちろんありえます。
逆に文章の形をしていなくても、例えば「写真とは何か」という問いを扱った写真作品は、わたしはある種の写真論だとも考えています(例えば、杉本博司の「劇場」シリーズ、横田大輔「Color Photographs」など、枚挙にいとまがないですが…は、わたしにとっては写真論です)。
そんな「写真論」の中にもやはり最重要とされるようなものがいくつかあります。
その究極とも言えるのが、ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』。ロラン・バルトは色々な「○○論」を書いた思想家で、音楽について書いたり、ファッションについて書いたり、さらには「日本」論として『表徴の帝国』なんて本も書き残しているカルチャー・フットワークが軽めな知の巨人という感じの人です。
さて、彼の『明るい部屋』が、いくつもの写真論の中で重要なものとなっているのは、彼が提起した「写真とは何か」の答えが、とても芯をくったもので、写真が多様化した現代であってもいまだに多くの人々にとっては有効性を保っているからです。
「それは、かつて、あった」。バルトは、これを「写真のノエマ(本質のようなもの)」と言いました。
もう少し詳しく言うならば、バルトは、「「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない」=写真は「現実のものでありかつ過去のものである」と述べることで、写真を見るときのわたしたちの経験を言い当てたのです。この感覚は今も健在だと思います。
一方で、写真がデジタル化し、写真の加工が当たり前になった現在ではこれを否定できる可能性はだいぶ高まってきちゃっているとも言えます。例えば「This Person Does Not Exist」というウェブサイトでは、AIによって生成された「存在しない人」の「写真」を淡々と生成し続けることができるのです。ただし、その「写真」を見ていると、「実はこの人も地球上のどこかには存在するのではないか?」という気もしてくるので、「写真=それは、かつて、あった」の観念はかなり強力に私たちの社会や、認知や、精神に染み込んでいると言えます。
「それは、かつて、あった」に加えて、バルトの写真論の中で重要なキーワードとなっているのは「ストゥディウム」と「プンクトゥム」です。
バルトは色々な写真を見ていく中で、ある1枚の写真に抱く「関心」や「感動」のあり方が2通りある、ということに気が付きました。
1つめは、「道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている」とバルトが述べたストゥディウム。そして、もう1つが、「プンクトゥム」であり、彼は「ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然」と説明しています。
例えば、唐突ですが「街に野生の猿が出た」というような報道写真を想像してみてください。
「猿を捕獲しようとする地元職員の奮闘と、それをなんとかかいくぐって逃げようとする猿の攻防」をとらえた1枚の写真があったとして、人間の奮闘の様子や、猿のすばしっこく人間を愚弄するような様子を写真から受け取ることができたとしたら、それがこの写真における「ストゥディウム」です。
バルトは、芸術として作られた写真を例にして「言ってみれば私は、「写真」から「写真家」の種々の神話を読み取り、それを完全に信じることはないにしても、それに対して友好的でなければならないということである」とストゥディウムを説明しました。つまり、「猿と人の攻防をとらえた写真家の技量が発揮された決定的瞬間(この言葉については第2回を参照)がすごい!」と、ある1枚の写真について感動すること、これがストゥディウムなのです。
さて、問題は「プンクトゥム」です。想像上の「猿出没報道写真」を例とした場合に、「猿の変な形をした尻尾」とか、「猿をとらえようとする職員の変な色の服」にどうしても目が奪われてしまう…など、写真家が意図していない細部が「自分を突き刺す」ような感動を与えてくる、それがプンクトゥムなのだとバルトは述べています。そういう感動を与える写真を高く評価するのが『明るい部屋』で展開される主張です。そして、プンクトゥムはかなり個人的な感動であり、本のなかでバルトは、「幼いころの母親の写真」とか、「黒人女性が履いている靴」とか、「少年の歯並びの悪い歯」などを例としてあげていますが、それが共有不可能なものであることも認めています。
ぶっちゃけ、わたしはこのプンクトゥム的な感動があんまりわかりません。というより、バルトの「プンクトゥム」という概念自体、「感受性エリート」的な能力に立脚しているような気がするのです。
「感受性エリート」は私の造語ですが、イメージを見る時に意味(ストゥディウム的なもの)を飛び越えてプンクトゥム的感動がブスブス刺さる!というタイプの人の性質。おそらく、わたしは「非・感受性エリート」なので、『明るい部屋』のなかで熱っぽくバルトが語るプンクトゥム式の感動には、「あー、そう?か…な?」くらいのかなり冷めた感想を抱いてしまいます。
説明可能な写真家の意図や文化的な背景を超えたところに写真の感動があることも理解はできるし、そういう感動を味わったこともないわけではない。ですが、このプンクトゥム的感動を追い求める写真論って、共有不可能な精神論のような、あるいは宗教的経験のようなものに似ている気がします。
いわば、「感受性スーパーエリート」的なバルトが示した写真論を基盤にすることによって、写真の評価や批評のなかでは、評価者(批評家や鑑賞者)の「感度マウンティング」が行われているような感じもするのです。
このことが、共有不可能で主観的で感情的で衝動的な、わかりにく〜い写真批評の基盤にあるとするならば、『明るい部屋』によって染み付いてしまったプンクトゥム至上主義的態度は、個人的には乗り越えていかなくてはならないなと思うのでした。ではまた!
参考:ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳、みすず書房、1985年
プロフィール
村上由鶴
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