カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/松尾スズキ

2022年2月9日

photo: Takeshi Abe
styling: Tomoko Yasuno
text: Keisuke Kagiwada
2022年3月 899号初出

「演劇ってこんなに自由なんだ」と気づいた10代の終わり。
紆余曲折ありながらも不正解だけは選ばずに来た、
自分の実力よりもちょっとだけ〝ついていた〟人生。

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 漫画家を目指す青年が、
演研に入部したワケ。

 2019年、東京成人演劇部という新しい劇団が誕生した。主宰者は大人計画を率いる松尾スズキさんで、3月には2回目となる公演を控えているという。松尾さんはこの〝演劇部〟を旗揚げした理由を「演劇を始めた頃の気持ちでもう一度やってみたかった」と語る。

「大人計画では、幸いなことにいつも大きな公演をやらせてもらえて、1,000人以上のお客さんを笑わせるっていうのはなかなか快感なんです。だけどそのぶん、興行に対する責任も背負わざるをえなくて、年をとるほど疲弊してくるわけで。ときどき思い出すんですよね、『大学の演劇研究会でやっていた頃は、お金のことなんて関係なく楽しい芝居ができていたなぁ』って。それでかつて早稲田大学の演研に所属していて、そのムードをよく知っている安藤玉恵さんと一緒にやることにしたんです。大人計画には演研出身の人って意外といないので」

 この話からもわかるとおり、松尾さんが演劇の道を歩み始めたのは、地元である九州の大学に入学した、18歳の終わり頃。どうして演研を選んだのだろう。

「ずっと漫画が好きで、高校のときに漫画の賞に応募して結構いいところまでいっていたんですよ。だから、漫画研究会に入るつもりだったんですけど、部室を覗いてみるとみんなめちゃくちゃ絵がうまくて。赤塚不二夫さんみたいなギャグ漫画を描いていた僕には、まったく太刀打ちできなかった。そんなとき、斜め前の部室から演研の発声練習が聞こえてきて。公演を見に行ってみたら、つかこうへいさんの作品をやっていたんですけど、すごく面白かったんですよ。それまで演劇って説教くさいものかと思っていたんですけど、毒のあることばっかり言っているし、『演劇ってこんなに自由なんだ』と。それで入部したんです」

 そんな不測の事態によって演研に入部した松尾さんだったが、どうやら性に合っていたもよう。最初は先輩の公演に出演していたが、部室に置いてあった大量の戯曲を読むうちに、興味は書くほうへも向かっていったという。

「それまで漫画と小説しか読んでこなかったので、こういう表現の形態があるんだなってことがまず刺激的でした。つかこうへいさん、野田秀樹さん、唐十郎さん……いろいろ読み漁りましたね。みんなスタイルが普通のエンタメとは違って、これだったら自分も書けるんじゃないかなと思ったんです。それで最初に終わりまで書ききれたのが、二十歳の頃かな。完結させられるっていうのは重要なんですよ。漫画を書いてもなかなか完結させることができなかったけど、演劇だったら無理に起承転結を作らなくても、自分の思いをつなげるだけで完結まで持っていける。その発見があったから今も書いてられるんだと思います」

 書き上げた戯曲は『松果村心中』! 気になりすぎるタイトルだ。

「昔の日本には〝瞽女(ごぜ)〟という盲目の三味線弾きの女性がいたといわれていますよね。その女性が三味線ではなく便所の汲み取りをしながら歌っていると、汲み取りの作業員とひと悶着あるっていうひどい話(笑)。その公演は自分で演出と出演もしていました。公演当日はすごい緊張したと思うんですけど、達成感みたいなものがやっぱりあったんでしょうね。まぁ、自分で書いて演出して出るってことをやらせてもらえなかったら、そこまで入れ込んでなかったかもしれません。割と先輩たちがゆるかったのでできたんですけど、早稲田の演研とか厳しいらしいですから。マラソンをやらされたり。それだったら、絶対に続かなかった」


AT THE AGE OF  20


二十歳の頃の松尾さんのセルフィー。なんとも言えない表情だ。ちなみに、大人計画という劇団名は、旗揚げ当時の小劇場界には子供を演じる劇団が多く、それとの差別化の意味があったそう。「深い意味はないんですけど、大人が大人の芝居をするという意気込みがあったんですね」と松尾さんは振り返る。もうひとつあった案は“スズキの動物園”。結果、“スズキ”は松尾さんの芸名として生き残ることになり、今に至る。

「もう後がない」と
ふたたび演劇の道へ。

 松尾さんの手掛ける作品は口コミで学校を飛び越え演劇好きに広まり、学外の仲間と福岡の劇場を借りて公演を打つまでになった。であるからして、このまま快進撃が続くのかと思いきやさにあらず。大学卒業とともに上京して就職し、演劇から足を洗ってしまったというのだ。

「食えると思ってなかったんですよね。働きながらできるとも思えなかったですし。ただ、漫画だったら働きながらでも描けるかなと思って、またそっちを目指すんですが甘かった。印刷会社に就職したんですが、残業が多くてそれどころじゃなかったんです」

 結果、会社は1年で退社。以後、バイトや先輩からもらったイラストレーターの仕事で食いつなぎつつ、出版社に漫画を持ち込む日々が続く。

「でも、全然駄目だったんですよね。芝居だと褒められたのに、漫画だとこの結果かと。孤独ではありましたが、地元では見られない映画や展示に触れられたから、退屈はしませんでした。それこそ舞台をはしごするなんてこともよくやっていましたし。ただ、いろんな芝居を見たけど、自分が福岡でやってたもののほうが面白く感じられて。そのくらいからですね、また舞台をやろうと思い始めたのは。まぁ、仕事は続かないし、漫画は芽が出なそうでしたから、後がないぞって気持ちもありましたが。実はその頃、劇団東京乾電池が1回目の研修生を募集していて、履歴書だけは送っているんですよ。だけど、虫の知らせがあって、行かないということもありました(笑)。柄本明さんはすごく厳しかったと聞きますから、行ってたらすぐに挫折していた」

 かくして、大学時代に一緒に演劇をやっていた友人を誘い、大人計画を旗揚げしたのが26歳のとき。しかし、その第1回公演の準備と同時に、松尾さんはある舞台に出演していたそうだ。

「当時、大好きだったラジカル・ガジベリビンバ・システムの宮沢章夫さんが、新しくユニットを作るという噂を聞いて、宮沢さんに『出たいです』って直談判して出させてもらいました。全然知り合いでもないし、なんで会えたのかもよくわからないんですけど(笑)。宮沢さんの稽古は、設定だけ用意されて、即興で何かやってと言われ、わけもわからずやる。それを宮沢さんがゲラゲラ笑いながら台本にしていくっていうスタイルで、怖かったですね(笑)。でも、その影響は確実に受けていて、第1回公演の稽古でも部分的に真似したりしていました」

 宮沢さんの公演が終わるやいなや、大人計画としての第1回公演『絶妙な関係』が開催された。「思ったほどの反応はなかったですけど、自分の中で手応えがあったんですよね」と松尾さん。

「それで、なんかやっていけるかなと思えたんです。あらためて振り返ってみると、激動の20代でしたよね。自分の今ある人生が決定づけられたわけですから。今のカミさんによく言われるんですよ。『あなたは本当についている。場面場面において選んだことに不正解がない』って。たしかに、自分の実力よりちょっとだけついてるかもしれない。少なくとも、あのとき乾電池に入っていたら、今の僕はなかったわけですから」

プロフィール

松尾スズキ

まつお・すずき|1962年、福岡県生まれ。1988年、大人計画を旗揚げ。’97 年、『ファンキー!〜宇宙は見える所までしかない〜』で第41回岸田國士戯曲賞受賞。演出を務める、『東京成人演劇部vol.2 命、ギガ長スW(ダブル)』が3月4日よりザ・スズナリで上演。

取材メモ

松尾さんは大人計画を旗揚げして間もない頃、宮沢章夫さんが放送作家を務めていたラジオのコント番組に、松尾貴史さん、ふせえりさんとともにレギュラー出演していたそう。「そのときの経験は、笑いの修業になりました。宮沢さんはある程度の設定を出すだけで、あとはぶっつけでやっていましたから。今、コントの番組を作っていますが、ふとこのリズム感は宮沢さんと作っていたときのやつに似ているなって思うことはあります」