カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/神田愛花

2024年6月11日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2024年7月 927号初出

アナウンサーになりたくて、
眼力で勝ち取ったNHKへの道。
無知がゆえ立ち向かえた新人時代。

わんぱくな小学校時代を経て、
女子高で自由を謳歌した。

 テレビ局のアナウンサーを経て独立した人って多彩だ。タレント、俳優、はたまた政治家。華やかで清潔感があって、何より声がいいから、好感度が高いのも頷ける。そのなかで異彩を放っているのが神田愛花さんだ。『ぽかぽか』のレギュラーMCとして生放送をきちっと進行する一方、『ドキュメンタル』の番外編『女子メンタル』でアントニオ猪木モノマネを披露する顔も持っている。しっかり面白いのがまたすごい。

「いえ、私自身は面白いことをやってるわけじゃないんですよ。面白く突っ込む方が周りにいるから、そう見えるだけなんです」

 神田さんはそう謙遜するけれど、作られていない野生の面白さがバシバシ伝わってくる。小さい頃はどんな子だったんだろう。

「3つ年上の兄がいましたし、同じマンションにも年上のお兄さんが多くて、男の子とばっかり遊んでました。〝ろくむし〟っていう、腕でゴムボールを打つ、ホームと一塁と三塁だけのゲームとか、男子の遊びばかり。お転婆に見られてました。幼稚園で同級生の親御さんが『愛花ちゃんは激しいから遊ぶのは控えようね』と言ってるのを目撃して、ちょっと浮いてるのかなって」

 小学校に上がるとスカートめくりが流行。神田さんは「なんで逆はないんだろう」と疑問に思い、ある日男子のズボンを下ろした。

「しっかり兄で訓練をしまして、クラスの子にやってみたらものすごく怒られました。なんでもやってみようっていう子でしたね」

 教育熱心な家庭だったから、テレビは1日30分。兄が「勉強しなさい」と怒られるのを反面教師に、親に迷惑をかけることは少なかったという。受験をして私立の女子中学校に進学すると、男の子とばかり遊んでいた毎日が、急に女の子だらけの環境に。ストレスも大きかったのでは?

「いやいや、すごく居心地がよかったです! 全国各地から個性的な子が集まっていて。火災報知器鳴らしたり、いろんなジャンルの子がいるわけですよ。なので、小学校では個性的と言われていた私もみんなと一緒っていうか。女子校最高でした」

 なんでも神田さんによれば、女子校特有のカルチャーというか風土があるらしい。

「よく『女子校は女の子っぽい』って言われるんですけど、女子高出身勢からしますと、共学のほうが女の子っぽいイメージがあります。私たちはやはり学校に男性の目がないので、平気で人前で着替えますし、自由にはなもかめますし、上履きを洗わなくても何も言われない。喧嘩も思いっきりやります。ものすごくさっぱりしていて、逆に社会人になったときに悪影響を及ぼすこともあったくらい」

 小中高と伸び伸び育った神田さん。大学受験を経て、学習院大学理学部数学科に進学した。理系だったんだ、と少し驚いたけど、よくよく考えるとわかる気もした。

「微分積分がすごく好きでして、問題を解いていると7時間ぐらい平気でたっちゃうんです。眠気も食欲もなくなって、ハイになるといいますか……。国語って解釈の仕方で変わるし、今も行間を読むのが苦手で、何も書いてないじゃないって思っちゃう。でも数学は必ず答えがある。それが白黒つけたい自分の性格と合っていたんです」


AT THE AGE OF 20


アメリカが誇るビッグシティ、ニューヨークをこよなく愛する神田さん。写真は2004年5月、社会人2年目の23歳のときに訪れたニューヨークでの一枚。お土産屋さんで自由の女神になりきってパチリと撮ったもの。「初めてニューヨークに行ったのが社会人1年目で、これは2度目に訪れたときの写真。海外旅行が好きなので、これまで合計90回以上は世界を旅しています。今は仕事があってなかなか出かけられないから、学生時代にもっと行っておけばよかったなあ」

逸見政孝さんを見て憧れた、
アナウンサーという職業。

 大学では勉強になるかもと読者モデルにも挑戦。というのは、すでにアナウンサーになるという夢があったから。実は小学6年生のときから将来を見据えていたのだ。

「当時、学習塾の日能研に通ってたんです。日能研はフジテレビの『平成教育委員会』とタイアップをしていて、志望校に受かった小6たちの祝賀会が横浜アリーナで開かれたんです。みんなテンション上がっちゃって、塾長の話も全然聞かない。でも、ゲストで番組MCを務めるアナウンサーの逸見政孝さんが話し始めたら、会場中の子供がお喋りをやめてシーンとなったんです。それを見たときに、アナウンサーってすごいなと。父や学校の先生、塾の先生以外で初めて刺激を受けた大人といいますか。そこでアナウンサーになりたいと思いました」

 さらに気持ちを強くしたのは、大学時代に読者モデルの流れで決まったエキストラのバイト。深夜の音楽番組の女子大生枠として出演することになり、神田さんは5人いるメンバーのオチの役を任された。

「でも、用意されたセリフを面白いと思えなかったんです。なんで思ったことを言っちゃいけないんだろうって。それでバイトを辞めました。作られた世界より、取材をして、事実を伝えるニュースが読みたいと思ったんです。そのほうが腑に落ちるなと」

 アナウンサー専門学校の夏期講習にも行ったが、「初日に考え方の違いで先生と喧嘩しちゃって」と即終了。それでも決戦の日は訪れ、民放各局から面接がスタート。多くの学生と同じく神田さんも全局受け続けたが、なかなか結果が出ない。最後に待ち受けていたのがNHKだったが、実はNHKの番組をほとんど見ていなかったという。

「好きな番組は? と聞かれて、『『プロジェクトX』です!』って答えました。大人気の、誰でも知ってる番組ですよね。だから面接官に『敵が何を作ってるか調べてから来ないとダメだよ』って注意されて、ああもうダメだと。でも受かったんです。入社後、面接官だった方に『どうして通ったんでしょうか?』と聞いたら、『アナウンサーになりたいんだっていう眼力が人一倍強かった』って。ここで採ってもらえなかったら夢がもう終わるって、必死だったんでしょうね。アナウンサーになるって、学力とか言葉の力じゃなくて、目力だったんだって気づきました」

 入社後、新入社員は全国各地にある支局に赴任をする。神田さんも4年間、福岡の地で勤務をした。慣れない土地と、初めての一人暮らし。肌が荒れ、「あんな子をテレビに出すなんて」とクレームが来たことも。

「幅広い年齢層の方がご覧になっていますからね。実力不足で、納得いくクオリティのものを出せない悔しさがありました。でも親友ができて、その子の実家に遊びに行ったりするうち、徐々に吹き出物も消えて。それに福岡の皆さんは成長を見守ってくださったんです。今も仕事で福岡に行くと『おかえり』って言ってくださるんですよ」

 話を聞いていると、二十歳の頃の神田さんは、常に自家発電で動いている。誰かと比べたり、くよくよしたりしていない。

「両親が見せてくれた番組が根性系だったんですよね。『忠臣蔵』とか強い思いで突き進むじゃないですか。そのせいか、辛くても立ち向かうし、人のせいとか環境のせいにすることがなかった気はします。あと、世間知らずがプラスに働いた気も。社会人になったとき、本当に無知だったんですよ。家賃も会社が払うと思ってたから滞納通知が来たりして。トラブルも、そういうものだと思ったからやってこられた気がします」

 最後に、今二十歳の頃の自分に会えたらどんなアドバイスをする? と聞いてみた。

「もっと遊んでおきなさい! ですね。十分遊んだんですけど、社会人になったら飲んで道路で寝転ぶなんてできませんから。ある程度しっかり遊んでおいたほうが、将来ひずみが出ないと思う。全部糧になるし、世界が広がると思います」

プロフィール

神田愛花

かんだ・あいか|1980年、神奈川県生まれ。2003年、NHKにアナウンサーとして入局。2012年4月からフリーに。現在『ぽかぽか』(フジテレビ系)のメインMCを務める他、数々のバラエティ、情報番組で活躍。『FRIDAY』で「わたしとピンクと、時々NY」連載中。

取材メモ

『ぽかぽか』生放送後、フジテレビからお台場海浜公園の自由の女神像前へ。この日は快晴で、真っ青な空にピンクのワンピースがよく映えていた。神田さんはとても気さくで、自身の面白さについての自己分析も興味深かった。「おそらく理系っていうこともあって、変わった考えを持っていると捉えられがちなんですよ。中高大の友達には何も言われないですもん。話が合っちゃうので。それが芸能界という場所だと、視点とか動きが変わって見えるんでしょうね」