カルチャー
詩人・黒川隆介による香水の散文詩
GROOVE GROOMING
2023年9月10日
text: Ryusuke Kurokawa
編集部で選んだ香水を詩人・コピーライターの黒川隆介さんに送り、その香りから想起したイメージを散文詩調にしたためてもらった。
1. Santa Maria Novella Nostalgia サンタ•マリア•ノヴェッラ ノスタルジア
16歳になると同時にバイクの免許を取りに行った。免許を取るより先に古着屋でショットの革ジャンを買った。思い詰めたときに、靴下に貯めていた小銭をひっくり返し、命の恩人と深夜飛ばして埠頭の灯りを見た。ガソリンスタンドのオイルだまりは虹色で水溜まりより綺麗で、通学路を逸れてはみんなで見に行った。それがまだガソリンだと知らなかった我々は、この虹色について夢の色ではないかと話し合ったりしていた。BLANKEY JET CITYのガソリンの揺れかたのベースラインを練習した。体育祭には行かなかった。ふと、日差しをふんだんに浴びたセーターに頬を寄せたときの穏やかな香り、かと思えば、樹木から溢れる蜜の香り。この奥行きは一体。カブトムシを採りに行って迷子になったのは懐かしい思い出だが、カラオケでカブトムシを歌う女性のことは好きになれなかった。ガソリンというものを、言葉を、知らなかったら。あの綺麗な虹色は美しいままだった。ガソリンを、言葉を、知らないで生きていくことができていたら。田村隆一さんが言っていた、言葉なんかおぼえるんじゃなかった。まさにそのとおりだ。あの日はじめて知った美しい虹色、この香りは生きてきた記憶の香り。思い出を手首に、うなじに垂らしてみようか。
2. TOM FORD TUSCAN LEATHER トム フォード タスカン レザー
その佇まいは神殿を思わせる。パルテノン彫刻なのかTOM FORDなのか、手のひらに乗り切らない余韻。人生の分岐点はどれか、と聞かれ、日々精細なグラデーションのように移ろいを見せる人間の一生が「たったひとつ」で分岐するはずはないと思い出す。刻一刻と多重化していく香り。これは重奏だ。動物的でいて精神的、深い森のなかで運命に思いがけず遭遇してしまったような。寄り道でこそ発掘される奇跡。たとえば無駄とも思える寄り道をたくさんしてきた男。もっと効率的に考えなさいと怒られることが多かった女。もっとわかりやすい資料をつくりなさいと指摘される男女。あらゆる無駄と思しき遠回りが時に極上を生む。はたして最短距離で目的地に辿り着けることは吉だろうか。足の速いやつが小学生時分はきまって日の目を見たが、歳を経てどうだろう。深く吸い込むたびに陰影をまとうような妖しい魅惑。香るたびに変遷するオーケストラ、邦画というより洋画、なのに、どうしてか今日は折坂悠太の曲が聴きたい。
3. Hermès Eau de basilic pourpre Eau de cologne エルメス オー ドゥ バジリック プープル オーデコロン
思い出すのはあのときの横顔。港をあとにした高速船が弾く水しぶきが頬に落ち、こぼれたときのもの。一方的に明確に伝えるために造られたようなものではなく、人間の感受性を信じて吹いていくもの。これは香水というより美しい生き物だ。ほのかに香る命。みずみずしい植物であり、たおやかな島風。人は言ってくれた誰かより、言わないでいてくれた人のおかげで生きていられる。おれだ、おれだ、と自己が加速すればするほど、人は自分を強く描く。椅子取りゲームのように他人をはじいてでも、人のことより椅子が欲しくなる。本当に必要なものは、去ることでそこに柔く浮かぶ。伝えたいものがあるからこそ、自分から離れて、透明になる。人間の可能性を甘く見積もってはいけない。伝えようとしてはいけない、ただ目をこらし、耳を澄ます。高倉健がいまこの世界に無名の若手となって転生したら、その凄みを映すことができる撮影者はいるだろうか。これは、この星の香り。私たちが住む地球、つけたことを自身が忘れるほどに、風に、そのまなざしになじむ。ああ、きみの残り香に触れたい。
4. EAU SAUVAGE オー ソバージュ オードゥ トワレ
友人の卒業アルバムの裏表紙には「これから皆変わっていくことが楽しみだ」と書いてあった。 人間である以上、物体としての変化は当然あるが、そのことを意味して書いたわけではないだろう。 当時友人宅へ遊びに行った際に目にしたその文字のことをよく理解できなかった。そして今も理解していない。 臨機的なものよりも恒久的なものに憧れがあるからだろうか。変わらないものがその周囲や世界を変えていく様を幾度か目にしたからだろうか。 男がまとう香水という単位について、これ以上に香水、香水たる大きさのものはないだろう。サントリーウイスキー山崎のコピー「なにも足さない。なにも引かない。」を思い出す。 EAU SAUVAGEはまるでエデンの園で汲まれてきたものに値札がつけられたようだ。マーケティングから転がって市場を超えたもの、化学からうまれて分泌物になったもの、ときに人は意図せず普遍の点にリーチする。日毎にあらゆるものが変遷していく今日、変わらないものについて足をとめてみてもいいだろう。同じく1960年代にいでたハーパー12年に面影を重ねるそのクラシックなボトル。男くさい、は褒め言葉だったはずだ。
5. ERL SUNSCREEN EAU DE TOILETTE イーアールエル サンスクリーン オードトワレ
良い加減に汗をまとった肌に不意に触れてしまったような、夏の淡さ。この瞬間にとどまっていたい、永遠に過ぎないでくれと願ってもきまって熱は遠ざかっていく。木陰にたまった思い出たちが海面にゆれ、通り過ぎてはその香りに思わず振り返る人たちの顔がよく見える。浮き輪に日焼け、日の出とコパトーン、南風をそのまま瓶にでも詰めたのだろうか、はかない甘さに惹かれてしまった人がまた足を止めてこちらを振り返る。香りと記憶。夏の日差しと触れたからだの熱。手首に顔を寄せるたび、あの頃にタイムスリップする。皆一様にビート板をつかんではばたばたとプールに泡を立てて進んだが、あれから人生が、夏が、どれほど進んだか。気がつけば太陽の角はだんだんととれていき、日ぐれに伴って甘さは宙に溶けていく。海は木々に姿を変え、またほのかに漂いはじめる。愛というよりは恋、瞬間的なノスタルジーがまた夜風のなかに消えていく。
6. LE LABO SANTAL 33 ル ラボ® サンタル 33
喉もとまで出かかったが、引っ込めたいくつかの言葉を思い出す。あのときこうしていれば、ああ伝えていれば、といった悔いや飲み込んだ溜息のようなものがその人間の奥行きを彫っていくらしい。香水を初めて手に取ったあの瞬間といまこの身に噴霧する瞬間、その時間に違いがあるとすればすれ違いざまにその香りをかぐ相手の違いか、決定的な違いはなんだ。写真や手紙よりも、香りの方がより細かい解像度によってそのときを思い出させるのはなぜだろうか。目を閉じて耳をふさいだほうがよく見え、よく聞こえるその不思議。思わず手首に鼻をなぞる。朝靄が晴れてきた花園に横たわり、浮かんでは流れていく雲を見ているような。つかみどころのない大きなかたまりのような魅惑に包まれていく幻想がこの東京にいても匂い立つ。刺激的な輪郭、後ろ髪をひかれるような官能、決定的な違い、それはこのSANTAL 33その香水の中にある。
プロフィール
黒川隆介
くろかわ・りゅうすけ|詩人、コピーライター。POPEYE Webにて「私的にいいとこ、詩的なところ。」連載。テレビ神奈川「イイコト!」レギュラー出演中。最近はポエトリーリーディングを積極的に行い、音楽フェスでの公演や酒場での朗読も行っている。
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