カルチャー

追悼:ウィリアム・クラインについて

文・村上由鶴

2022年9月30日

先日(2022年9月10日)、アメリカ出身のウィリアム・クライン(William Klein)が亡くなったというニュースが飛び込んできました。
今日は、そんなクラインによる日本の現代写真や現代のファッション写真への影響について書いておこうと思います。

ウィリアム・クラインは、『ニューヨーク』、『ローマ』、『モスクワ』そして『東京』など、スタイリッシュな都市の「ストリート」写真で知られる超大御所写真家のひとりです。

私がウィリアム・クラインの写真を初めて見たのは、おそらく大学1年生のとき。授業の中ひたすら写真史の時間軸に沿って、写真作品を見ていた時(眠い目をこすりながらもなんとか意識を保ちつつ)、確か同じく偉大な写真家で、アメリカの都市をとらえたロバート・フランクの後に紹介されたように思います。
わたしはクラインの鮮烈なイメージに驚き、目が覚め、ストリートの写真なら私は断然クライン派!と感じ、「William Klein」とノートの端にメモした記憶があります(エモい)。

何がそんなに「鮮烈」に感じられたのかというと、その当時私が習っていたような、「適正露出」や「豊かな階調表現」といった正しいセオリーを、クラインの写真は軽々と超えていたからです。「こんなのありなの!?」
そのころのわたしにとってはクラインの写真を見てから、それ以外の写真がちょっと古く感じられてしまうほどでした。実際古いんですけどね。

現代的な写真感覚で見れば、顔を撮る時には「盛れない」写真のスタイルではありますが、粗粒子のアレ、素早く動いている被写体を捉えたり写真家自身が動いことによって生じるブレ、そして、ピントがずれたボケ、それぞれの粗暴さ。そして白飛びし、黒つぶれしている強烈なコントラストが印象的です。
これらのスタイルは、変化し続ける都市の息づかいを静止画の一枚の写真に閉じ込める際の演出としては、非常に「適正」だと感じられます。

いわばクラインのスタイルは「都市」を撮るには超盛れるフィルター。
もちろん、当時はフィルターはおろかスマホもデジタル写真もありませんから、そのムードとトーンを作り出したクラインの発明は偉大です。

ただし盛れると言っても、クラインが作り出したムードとトーンは、汚くて、ちょっと意地悪な都市でした。
都市のムードを作るその土地の人々の笑顔はいちいち不気味だし、そうでなければ怪訝そうな顔をしていたり、ちょっと滑稽であったりと、リスペクトが感じられるものではありません。
このように「よそもの」として都市に踏み込む図々しさもイメージにあらわれていますが、カメラが背中を押したのかもしれません。この強引な踏み込み方は、今や「古き良き」ものになってしまった感があります。あるいはこれを、写真家が持っていた「意地悪な写真」を撮る特権と考えることもできそうです。

そんな図々しさや意地悪も含めて、わたし個人としては、クラインの手法は写真史をクライン前とクライン後に分けられるような衝撃を与えるようなものだと考えています。実際、クラインがデビューした当時もこのスタイルはとても斬新であり、写真史においては大きなジャンプを伴う前進だったのではないかと思います。

そんなウィリアム・クラインの「アレ・ブレ・ボケ」表現は特に日本の写真家たちに強い影響を及ぼし、それが現在まで続いているといっても過言ではありません。
クラインの影響を強く受けたと公表しているのは、森山大道と中平卓馬。いずれも日本の写真史における超大御所ですが、このふたりが参加していたのが『PROVOKE(プロヴォーク)』という思想強めの写真同人誌。この誌面の写真表現の特徴がまさに「アレ・ブレ・ボケ」であり、彼らのスタイルは世界における「日本の写真」のイメージを形成したので、現在でも人気があります。
そして、現代に至る日本の写真において、「写真術の常識」からどれくらい外れるのか、どこに手を突っ込んで、どれくらい「あえ」るのか、と言う写真表現の歴史が始まったのもこの頃といってもいいと思います。

さて、そんな都市のストリート写真が高く評価されたウィリアム・クラインは、画家やグラフィック・デザイナーとしての経験を活かし、アメリカ版『VOGUE』でもファッション写真家として活躍します。

クライン個人の写真の特徴は、激烈コントラストとアレ・ブレ・ボケでしたが、実は、ファッション写真では粗粒子も控えめ、ブレとボケ、そして図々しさも意地悪もほとんど封印し、高コントラストなイメージづくりに徹していました。
特に、その高いコントラストを活かせるスタイリングとの相性は抜群で、それを引き立てたのが、彼の画家やデザイナーとしてのユーモアです。

横断歩道の黒白、鏡を使った騙し絵的演出、スタジオ内でアシスタントにライトを持たせて捉えたという全身サイズのお絵かきのような描線など、それぞれが彼のスタイルとマッチし、モノトーンなのにビビッドな画面を作り出しているのです。

ちなみに彼の鏡の演出は、さまざまな写真家に受け継がれアップデートされていますが、わたしが思い出すのは、超・ど迫力のファンタジーを作り出すことで知られるティム・ウォーカーや、ビビッドな日差しと独自の身体表現とシュルリアリズムチックな表現を特徴とするヴィヴィアン・サッセンの仕事です。

と、このように、ウィリアム・クラインの、現代の写真への影響は計り知れません。

なので、写真に興味があるけれど、どんな写真集から見ればいいかわからない!と言う人に最初の一歩としておすすめしたいのがウィリアム・クラインの写真集。
誰でも写真家になれるこの時代に見ても、明らかに決定的な瞬間を巡り合っていることを感じられるはず。
ちなみにクラインの写真集は、カバーデザインもクラインが行っていて、それまたスタイリッシュなので、書店で見つけてぜひチェックしてみてください。

晩年、車椅子で過ごしていたクライン、向こうの世界では自分の足で楽しくストリートスナップに明け暮れているでしょうか。ご冥福をお祈りしましょう。
ではまた!

プロフィール

村上由鶴

むらかみ・ゆづ | 1991年、埼玉県出身。写真研究、アート・ライティング。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院博士後期課程在籍。専門は写真の美学。The Fashion Post 連載「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎Plus「現代アートは本当にわからないのか?」ほか、雑誌やウェブ媒体等に寄稿。2022年本を出版予定。