ファッション

“センスがいい人”の戦略。白洲次郎

文・デーヴィッド・マークス

2022年1月30日

text: W. David Marx
translation: Rei Murakami (Alt Japan)
illustration: Dick Carroll
2022年2月 898号初出

現在発売中の本誌2月号“STYLE SAMPLE 2022”では、W.デーヴィッド・マークスさんが『STRATEGIES FOR STYLE“センスがいい人”の戦略。』と題したエッセイを寄稿してくれた。ウェブでは特別に3名のスタイルアイコンと彼らの“戦略”をバイリンガル版で公開!

本格

 白洲次郎はおそらく、プリンプトンの対極に位置するだろう。今日では、その業績よりも個人のスタイルが有名だ。プリンプトンも白洲も、エリート階級の出身だ。白洲は明治時代後期の兵庫県で、元三田藩の士族の家系に生まれた。日本には多くの富裕層がいたが、白洲家は舶来文化を取り入れることにおいて、抜きんでていた。白洲の父親は米国人家庭教師につき、ハーバード大学で学んだ。若い白洲も英語を学んだが、それだけではなく、米国人のように暮らした。ペイジ・オートモビルのオープンカーで神戸の街を走り回った。その後ケンブリッジ大学で学び、英国の上流階級と付き合い、また、様々な車を乗り回した。第2次大戦後の日本占領時には、ビジネスと政治の強いパイプを生かして重要な役割を果たし、その後長く続く日米の絆を作ることに貢献した。

 当時の白洲が三つ揃えのスーツを見事に着こなしていたという点は重要だ(なかには、サヴィルロウの老舗テーラー『へンリー・プール』で仕立てたスーツもあった)。礼儀正しい若者の時代も、年長の優れた政治家の時代も、白洲にはスーツが似合った。オールバックにしたグレーの髪、パリッとした白いシャツ、太いネクタイ、スマートな革靴、そして濃い色のコート──写真で見る彼の装いは完璧だ。また、白洲は「オフ」の姿も完璧だった。1950年代の白洲を捉えたおそらく最も有名な写真では、白いTシャツに〈リーバイス〉のセルヴィッジデニムを着た白洲が、車いじりの後に一服している。

「初めてジーンズをはいた日本人」といわれ、愛用したのは〈Levi’s〉の501XXと推測されている。(1951)
撮影濱谷浩/©片野恵介/写真提供:武相荘

 ドレスアップをしたときも、ドレスダウンをしていても、白洲のスタイルは彼の「オーセンティックさ」(本格さ)に結びついており、これが白洲のスタイルの秘訣だった。スタンドプレー的な要素はなく、試しているように見えることもない。自分のライフスタイルを完璧に表した服を、ただ身に着けていただけなのだ。サヴィルロウの三つ揃えのスーツは、彼が英国で過ごした時間によるものだし、カジュアルな姿は、車の改造や修理に注ぐ情熱を表していた。Tシャツとジーンズの白洲はジェームス・ディーンのようでもあるが、ディーンが映画界で頭角を現したときよりも、白洲の写真のほうが遥かに古い。

チェスターフィールドコートを羽織り、アメリカから帰国した首相特使の白洲。(1952)
毎日新聞社/アフロ

 白洲のような人生を送れる者は稀だが、彼のスタイルから学ぶことはできる。重要なことは、私たちが着る服が、着たときに「快適さ」を示すものであることだ。これを実現するには、自分自身を受け入れ、自分の本当のライフスタイルを表す服を着ることだ。オーセンティック(本格的)なスタイルを目指すということは、自分自身を知る、すなわち自分の出身、現在地、そして向かっている先を知ることなのだ。スーツの着こなしアイデアを白洲から2~3盗むことは簡単だ。だが、それよりも彼の「自信」を真似ようではないか。

プロフィール

白洲次郎

外交官、実業家。1902~1985年。兵庫県生まれ。17歳で渡英し、ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤め、’43年に東京都鶴川村に移り農業に従事。戦後、首相の吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたり、日本国憲法の制定にも関わった。

筆者プロフィール

デーヴィッド・マークス

文筆家。1978年、アメリカ・オクラホマ州生まれ、フロリダ州育ち。2001年ハーバード大学東洋学部卒、2006年慶應義塾大学大学院商学研究科修士課程修了。日本のファッション、アート、音楽への造詣が深く、2015年に日本の洋服文化史『AMETORA 日本がアメリカンスタイルを救った物語』がアメリカで出版され、2017年に日本語版がDU BOOKSより刊行。ステータスと文化の関係性についての総合文化論をアメリカのVIKING BOOKSから8月刊行予定。