カルチャー

「自由という名の街」のはなし。/第0話:まえがき

photo: Naoto Date
edit&text: Kosuke Ide

2026年2月6日

変わりゆく街で語る「極私的・自由が丘物語」

 よくよく考えたら、「自由が丘」って奇妙な名前じゃないか? 地名に「自由=freedom / Liberty」という単語が入っているなんて!

 東京・渋谷から南西へ、東横線で約10分。目黒区南部から世田谷区東部にかけて位置するこの街は、日本にいくつかある(実は愛知県や兵庫県にもある!)自由が丘という地名の元祖。女性向けの小さなブティックやカフェ、スウィーツや雑貨の店が密集する、何となくキラキラ&フワフワした微妙なトレンディ感に溢れたイメージの街は、『POPEYE』読者の硬派(?)なシティボーイたちにとって、例えば代々木八幡や中目黒といった街と比べて「馴染み薄」の感がなきにしもあらず……かもしれない。しかし、この街のルーツをDIGしてみれば、そこに興味深い“シティ”な歴史が浮かび上がる。

 自由が丘という地名は、1930年に欧米の自由教育運動に影響を受けた教育者・手塚岸衛が設立した「自由ヶ丘学園」に由来をもっている(黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』に描かれた「トモエ学園」の前身だ)。今からは信じられないが、明治期にはこの周辺は荏原郡衾村(えばらぐんふすまむら)と呼ばれる、緑豊かな農村だったそうだ。23年の関東大震災後には宅地開発が始まったものの、まだまだ田畑や竹藪、雑木林の広がる長閑な土地だった。

「大正デモクラシー」のこの時代、「画一的で型にはめるような教育でなく、子どもの関心や感動、個性や創造性を尊重した自由で生き生きとした教育」を目指した自由ヶ丘学園の先進的な思想に賛同した人々が集まり始め、この地にちょっとした文化的コミューンを形成する。その中心人物のひとりが、28年に同地に「石井漠舞踊研究所」を設立していた日本の創作舞踊の先駆者、舞踊家の石井漠(いしい・ばく)だった。

 現在の自由が丘駅は当時、「九品仏駅」(1927年開設)という名称だったが、石井や手塚らの熱心な要望によって29年に「自由ヶ丘駅」に変更されることになった(九品仏駅は現在の場所に移動した)。地名はまだ「碑衾町大字衾」だったが、これも32年に「自由ヶ丘」に改称され、東京市に編入して「目黒区自由ヶ丘」になった(65年に「ケ」を「が」に変更)。

 30年代後半〜太平洋戦争期にかけては、「自由」という言葉が「個人主義や西欧的価値観を連想させる」として“不適切”であるとされ、町名改称の危機を迎えたこともあったが、地主や住民たちが何とか守り通した、なんて話もあるらしい。

 昭和初期から戦後にかけては、多くの文化人が自由が丘や隣の緑が丘など周辺に住み、親しく交流した。山田耕筰(作曲家)、石坂洋次郎(作家)、石川達三(作家)、岡本太郎(画家)、岡田謙三(画家)、伊福部昭(作曲家)、宮本三郎(画家)、金丸重嶺(写真家)、三島由紀夫(作家)などなど……そんなアーティストたちが暮らす「自由で文化的でモダンな街」。昭和初期には駅南口にテニスコートがあり、近郊には白いペンキで塗られたトンガリ屋根の洒落た文化住宅が並んだという。

 50年代に入ると沿線開発と人口流入が進み、丸井や東急ストアなどの大手資本も進出。高度経済成長の時代を迎えて発展、メディアにもたびたび登場するようになると「文化的で上品な郊外商業地」として知られるように。80年代には、細い街路に可愛らしいインディなお店が立ち並ぶ、散歩が楽しいショッピングタウンとして人気の観光地にもなった。

 長きにわたりその風景を保持してきたそんな自由が丘で近年、大規模な再開発の計画が進んでいる。駅北側の駅前地区では地上15階・地下3階の複合ビル建設、駅前の歩行者空間整備や広場づくりによって、周辺の活性化を図るという。他に駅東側にも進行中の開発プロジェクトがあり、動線整理による混雑緩和、また駐輪やオープンスペース不足、建物の老朽化などの課題の解消が目指されている。

 今まさに、大きく変わりつつある自由が丘。生きている街には新陳代謝が必要だろうが、そこで暮らす多くの人々の心の中には、きっといつまでもそれぞれの「あの日の街」が記憶されている。本連載は、この「自由という名の街」に関わりをもつ人々に登場していただき、その思い出や街の魅力について語っていただく連続インタビュー企画だ。自由を愛した人々が作り上げてきた街で綴られる、極私的だけれど何より大切な知られざるヒストリーに、ぜひ耳を傾けてみてほしい。