TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#3】 武蔵野音楽史序説/中央線とヒッピー・カルチャー

執筆:大石始

2025年9月28日

大石始


text & photo: Hajime Oishi
edit: Ryoma Uchida

 都心を出たJR中央線は、多摩地域を横断するようにして西へと進む。中野から八王子までの区間は定規で線を引いたかのように真っ直ぐで、その間目立ったアップダウンもなく、ひたすらに平地が続く。

 60年代後半以降、新宿から西へと伸びる中央線沿線には、ヒッピー・カルチャーの拠点が複数作られた。原点はナナオサカキや長沢哲夫、山尾三省、山田塊也らによるヒッピー集団「部族」。その最初の拠点が国分寺にあり、1968年には国分寺駅北口に「エメラルド色のそよ風族」というコミューンが形成される。山尾三省は当時のことについてこう描写している。

一九六八年の五月、国分寺市の古い大きなアパートの十畳間に三〇人ばかりの異様な風体の若者たちが集まっていた。髪の毛を長くのばし、ひげをぼうぼうと生やした男たち、ビーズ玉で作った首飾りや腕輪をつけ、インディアン風の髪バンドや色とりどりの服装をした娘たち――現在でもそんな風体の若者が三〇人も集まったら少々異様な光景だろうが、その当時はいっそう物狂おしい有様だったのだ。(*1)

 70年代初頭、西荻窪には中央線カウンター・カルチャーの拠点ともなる雑貨屋「ジャムハウス」がオープン。無農薬野菜の販売やワークショップ、ミニコミ出版などが行われ、1976年にはここで築かれたネットワークを元にして現在も営業を続ける「ほびっと村」が開かれる。1977年には「女たちのワーカーズ・コレクティヴ」を謳うオーガニックレストラン「たべものや」が開店するなど、西荻窪は中央線沿線のオルタナティヴな動きの中心地でもあった。

 三鷹にはミルキーウェイというコミューンもあった。70年代中盤、このコミューンから日本列島を南から北まで徒歩やヒッチハイクで移動する「ミルキーウェイ・キャラバン」が始まった。その中心人物である大友映男は現在も三鷹で自然食品店「やさい村」を経営している。

 70年代に推し進められたそうした社会変革の試みは、中央線の音楽文化と常にリンクしていた。1972年から1973年までの一時期、吉祥寺北口に存在していた伝説的なライヴスペース「OZ」の運営は中央線のヒッピー・コミュニティーが支えており、1972年10月にはミニコミ紙「名前のない新聞」が主催する「Be-In 武蔵野」というイベントが吉祥寺で行われている。OZ、ぐゎらん堂、井の頭公園などで同時多発的にライヴやワークショップを開催するというもので、「名前のない新聞」発行者の浜田光は次のように回想している。

吉祥寺は若者の街ということでマスコミでもさかんにとりあげられていて取材されたこともある。しかしそういうブームのようなマスコミのちやほやぶりに違和感を抱き、吉祥寺の街を自分たちの手に取り戻したいという気持ちから、1972年10月に仲間たちでBe-In 武蔵野と称した祭りを行ったことがある。(*2)

 中央線沿線で行われてきたそうした活動は、中心的なものに対する周縁からのカウンターでもあった。裸のラリーズの一員などとしてたびたびOZでライヴを行っていた音楽家の久保田麻琴は、以前筆者との雑談のなかで「1972年ごろの日本の最先端は吉祥寺と京都だった」と話していたものだが、70年代当時、東京の最先端のひとつは武蔵野という「周縁」にあったのだ。


*1:『思想の科学』(思想の科学社)一九七一年九月号所収、山尾三省「エメラルド色のそよ風族の話」
*2:『スペクテイター No.30』(エディトリアル・デパートメント)所収、浜田光「『ホール・アース・カタログ』ともうひとつの出版史」

プロフィール

大石始

おおいし・はじめ|1975年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード店店主や音楽雑誌編集者のキャリアを経て、ライターとして活動。世界各地の音楽や祭りを追いかけ、地域と風土をテーマに取材・執筆を行っている。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」を主宰。著書に、『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』(キルティブックス)、『異界にふれる ニッポンの祭り紀行』(産業編集センター)など。

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