カルチャー

【#4】東京の中の無数の「東京」

2021年8月1日

photo: Keiko Oishi
text: Hajime Oishi

東京は広い。呆れるほどに広い。都心からもっとも離れた「東京」は、民間人の住む有人島ならば小笠原諸島の母島。小笠原の中心にあたる父島までは、竹芝桟橋から週1便の定期船「おがさわら丸」が就航している。所要時間は実に24時間。母島までは父島からさらに2時間を要する。どちらの島にも現段階では空港がないので、たとえあなたが大金持ちで自家用ジェットを所有していたとしても、どちらの島にも着陸することはできない。24時間から26時間ということは、同じ東京の中で移動するだけで南米のブラジルに行くのと同じぐらい時間がかかるわけだ。

小笠原諸島よりも内地に近い伊豆諸島は、かつて罪人たちを送る流刑地でもあった。大島と新島に送られたのは主に軽犯罪者、南へ下った三宅島は主に破廉恥犯、八丈島は思想犯。罪人の中には教養のある人士も多く、彼らは島に知識や文化をもたらすこともあった。絶海の孤島とはいえ、内地と何らかの結びつきを持っていた伊豆諸島と比べると、小笠原諸島はそうした結びつきも希薄な最果ての地であった。江戸時代後期までは各国の捕鯨船が寄港する以外は漂流民が流れ着く程度。長らく無人島(ブニンジマ)と呼ばれており、そのため現在もボニン諸島(Bonin Islands)という別名を持つ。

小笠原諸島における最初の定住者となる20数名が父島に入植したのは文政13年(1830年)のことだ。とても興味深いのは、小笠原への最初の入植者たちが内地から渡った日本人ではなく、アメリカ人のナサニエル・セイヴァリーら欧米人5人と太平洋諸島民で構成されていた点だ。初期に入植した人々のなかには当時ポルトガル領であった大西洋の小国、カーボベルデ出身のジョアキム・ゴンザレスがいたように、その顔ぶれは国際色豊か。そうした多様なバックボーンは、現在の小笠原の文化や風習にも痕跡を残している。

小笠原が象徴しているように、東京の島嶼部では島ごとに異なる歴史が刻まれてきた。なかには八丈小島や鳥島、鵜渡根島など一時期人が定住し、のちに無人島となった島もある。こうした島々の歴史には都心部とも異なるドラマがあり、そうしたドラマに触れるたび、東京に対する自分の中のイメージがじわりと拡張されていくのである。

そもそもの話として、人の数だけ物語があり、多種多様な歴史が蓄積された広大なエリアを「東京」というたった二文字で括るのは無理があるのだ。日本列島のなかに無数の「日本」があるように、東京の中にも無数の「東京」がある。そうした「小さな東京」を記録することもまた、自分の仕事のひとつだと僕は考えている。

プロフィール

大石始

1975年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード店店主や音楽雑誌編集者のキャリアを経て、2008年からライターとして活動中。主にアジアを中心とした世界各地の音楽や祭り文化について執筆している。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)など、これまでに数多くの著書を手掛けてきた。現在、「ぼん商店」でZINE販売中。
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