カルチャー

【#1】ダイダラボッチと東京

2021年7月11日

世田谷に代田という町名がある。最寄駅は京王線の新代田駅か、小田急線の世田谷代田駅。京王線には代田橋という駅もあるが、厳密にいえば、こちらは代田地区の外にある。いずれにせよ、下北沢にもほど近い住宅街だ。

この代田、実はダイダラボッチという巨人を地名の由来としているのだという。その説を解いているのは、民俗学のレジェンドである柳田國男。かつて代田橋駅からほど近い場所に窪地があり、村の人々はその窪地をダイダラボッチの足跡と信じていた。そのことから「代田(ダイタ)」という地名が付けられたらしい。

ダイダラボッチ伝説が伝わっているのは代田だけではない。聞くところによると、富士山はダイダラボッチが掘り起こした土によって生まれたものだそうだし、掘った跡は琵琶湖になり、手をつくと浜名湖になった。だったらダイダラボッチが尻餅をついた跡は何になったのだろうか。クシャミをした跡は? そう考えていくと、この日本列島の凹凸はすべてダイダラボッチの痕跡のような気さえしてくる。

東京は奇妙な街である。そうやってアスファルトの奥深くに眠る歴史や物語を調べていくと、ときたま目と耳を疑うような話に出会うことがあるのだ。千駄ヶ谷(新宿区)や千駄木(文京区)という地名は萱(かや)や木を千駄(「駄」とは馬に乗せる重さの単位)取れるほどの荒野だったことが由来となっているが、柳田は「母の手毬歌」という論考で別の説の可能性を説いている。ひょっとしたら千駄ヶ谷および千駄木の地名は「千駄焚き」と呼ばれる雨乞いの儀式からきているのではないか、と。千駄焚きとは、山頂に薪をたくさん積み上げ、火を焚いて騒ぐというもの。儀式の効力で雨が降ったのかどうかは分からないけれど、結果はどうあれ、野外のレイヴパーティーのような感じで実に楽しそうだ。

かつての東京では、そのようにありとあらゆる場所で雨乞いが行われていた。一時期雨乞いに関心があって東京中の雨乞いスポットをリストアップしたことがあったが、あまりの多さから途中でギブアップしたほどだった。奥多摩のような山深い場所ばかりではない。原宿の農民は雨乞いのため、丹沢の大山阿夫利神社や榛名山を詣でたというし、意外な場所に雨乞いの痕跡が見られることもある。

そうやってひとつひとつの歴史を掘り起こしていくと、東京という街は突如新たな表情で僕らの前に立ち現れる。そのたびに僕は「東京はなんとも奇妙な街だ」と呟いてしまうのだ。

プロフィール

大石始

1975年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード店店主や音楽雑誌編集者のキャリアを経て、2008年からライターとして活動中。主にアジアを中心とした世界各地の音楽や祭り文化について執筆している。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)など、これまでに数多くの著書を手掛けてきた。現在、「ぼん商店」でZINE販売中。
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