TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#4】駄菓子へのまなざし

執筆:畑井洋樹(仙台市歴史民俗資料館)

2025年6月4日

石橋の駄菓子研究は遅くとも昭和ヒトケタの頃に始められ、昭和10年(1935年)には地元新聞でも取り上げられるほどでしたが、昭和20年(1945年)7月10日未明の仙台空襲で石橋屋の店舗も彼の駄菓子資料もすべて灰塵に帰してしまいました。
しかし、そこは日本でもっとも駄菓子を愛した男。店を再建して駄菓子調査も再開。民俗学の雑誌に研究分析を掲載し、昭和36年(1961年)には初の著作『駄菓子のふるさと』を出版しました。
彼自身が「業界未踏とうぬぼれる駄菓子の研究」と語る成果に多くの関心が集まり、講演会は言うまでもなく新聞や雑誌、ラジオ・テレビへの出演依頼も数多く寄せられました。

『駄菓子のふるさと』外箱
題字は幸田文が書いています。

博物館「明治村」での展示会の様子

仙台三越で開催された展示会の様子

テレビ番組でインタビューを受ける石橋幸作

石橋の研究が多くの関心を集めた理由は、失われつつあった幕末から明治時代にかけて親しまれていた食文化の一面を明らかにしたことによります。日本は昭和30年前後から高度経済成長期に入り、人々の生活と食文化は大きく変わり始めていました。石橋の研究は人々が忘れつつあった風景を思い起こさせるものだったのです。おりしも昭和43年(1868年)は「明治100年」であり、江戸から明治時代の歴史や文化へ人々の関心が高まっていました。石橋の駄菓子研究は社会の急激な変化の中に消えてしまった、かつての人々の心象風景をよみがえらせるものだったのです。石橋の作った模型は日本人の食文化を示す資料として昭和36年(1961年)に開館した仙台市博物館に開館の翌年に収蔵され、昭和40年(1965年)に愛知県犬山市にオープンした博物館「明治村」にも納められました。

石橋幸作直筆の「駄がし画譜」に描かれた全国各地の駄菓子

石橋の研究が注目された「明治100年」の頃から約50年を経て、今年は「昭和100年」です。この100年で私たちの暮らしも食文化も大きく変わりましたが、現代の日本の食文化を伝えるものは何でしょうか。
石橋幸作が愛した駄菓子のように、私たちの心の風景を語る時に欠かせない食べ物について考えてみるのも面白いかもしれません。

石橋幸作の描いた駄菓子屋の店先風景

プロフィール

畑井洋樹

はたい・ひろき|1972年生まれ。2006年より仙台市歴史民俗資料館に勤務。
2024年に特別展「仙台駄菓子と石橋屋」を担当。
過去に特別展「おやつ~今や昔の甘味事情~」「餅・もち~ハレの食~」などを担当した。
食文化が専門ではないが、いろいろなご縁から展示を企画している。

Official Website
https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/~rekimin/