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エア ジョーダン 1はいかにして“アイコン”になったのか。
“神様”マイケル・ジョーダンのカリスマ性、スタイル、言葉から読み解く。
2025年2月7日
text: Yoichiro Kitadate
1985年の誕生以来、バスケットボールシューズの枠を超えて、ファッションやカルチャーのアイコンとして君臨し続けるエア ジョーダン 1(以下AJ1)。もちろん、その歴史も支持率も、マイケル・ジョーダンという卓越したプレイヤーの存在があってこそ! AJ1の発売から40周年を迎える好機に、全盛期のマイケル・ジョーダンをインタビューし、かつてAJ1の復刻プロジェクトにも携わったクリエイティブディレクターの北舘洋一郎さんにインタビュー。ジョーダンのカリスマ性の源泉、そしてAJ1がエバーグリーンな理由って、“そこ”にあったんだ!
1984年、マイケル・ジョーダンがNBAデビュー年。
バスケットボールシューズとして、スニーカーとして重要なモデル、エア ジョーダン 1(以下AJ1)が〈ナイキ〉からリリースされた年です。
当時、僕は高校生で、バスケットボール部に所属していました。今のように海外の情報に簡単にアクセスできる環境になかったのですが、アメリカやNBAの情報を留学していた先輩からビデオや雑誌を送ってもらって見ていました。マイケル・ジョーダンもルーキーの頃からチェックしていて、もちろんAJ1も気になり始めました。特に黒×赤のカラーリングは斬新で、NBA規約違反と禁止されても毎試合罰金を払いながら履き続けたこともすごい話題になっていました。禁止の理由は、ユニフォームの統一性に関するルール。プレーヤーのシューズは51%以上がホワイトで、他のチームメートのシューズと調和するものでなければならないと警告。〈ナイキ〉がこの規定をそもそも知らなかったか、確信犯だったかは当時の担当者に聞いてみたいですね。違反通告を逆手にとってのプロモーションだったら、当時のナイキの革新的マーケティングの一環だったのかもと思いました。NBAにおいて〈ナイキ〉というブランドはまだ“チャレンジャー”だったからこそ、その影響にレバレッジが効いたのでは。何より、1985年の〈ナイキ〉にとって、ジョーダンはそれだけの“投資”をする価値と未来のある存在だったのは間違いないはずです。
1985年のリリース時のAJ1の定価は15,000円オーバーだったと記憶していますが、地元のスポーツ用品店では在庫がまあまああって、高校生の僕には高価だったのでセールを待ってまとめ買いしていました。といってもバスケの練習や試合ではなく普段履きのために。時代性もありますが、当時のバッシュの革は厚みがあって固かった。野球のグローブのように使い込んで馴染ませ、自分の足に合うようにオイルを塗ったりしていました。1982年誕生のエア フォース ワンと同様にアメリカやNBAを感じさせるシューズでしたね。リアルタイムで、AJ1のローンチを体験して、それから数年後にマイケル・ジョーダンに直接インタビューする機会に巡り合ったり、AJ1の復刻プロジェクトに関わるとは、当然、高校生の僕は知る由もなかったですね。
15年間の選手生活の中で得点王10回、年間最多得点11回、平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代5位。’90年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、5度のシーズンMVP、6度のファイナルMVP受賞。くわえて1984年のロサンゼルスオリンピックと、1992年のバルセロナオリンピックにおいてアメリカ代表(ドリームチーム)の一員として2度にわたり金メダルを獲得。’86年のプレーオフでボストン・セルティックスのスタープレイヤーのラリー・バートが「彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」と評した言葉はあまりにも有名。NBAのみならず、世界のスポーツ界においても抜きん出たアスリート。そんなジョーダンの名前を冠し、彼のために作られたAJ1およびその後のAJシリーズもまたスペシャルなシューズとなっていきました。
バスケットボールプレイヤーとして、マイケル・ジョーダンが“神”と呼ばれる理由はどこにあるのか。それは“エア ジョーダン”という言葉を具現化したような、圧倒的に長い滞空時間から繰り出すダンクシュート、そのダイナミックさ、華麗さは他の選手とは明らかに一線を画していました。そして、“エア”のごとく空中を浮遊する最中にディフェンスをかわしてシュートを決めるダブルクラッチやフェイドアウェイ。まさに神業的なプレイに相手選手は圧倒され、観るものにこの上ない興奮をもたらす。シグネチャーモデルのネーミングがプレイスタイルとここまでシンクロしたのは、NBAの歴史でも初めてです。AJ1、そしてAJシリーズが象徴的なモデルになった大きな理由だと思います。
ジョーダンのミラクルなプレイに期待してスタジアムを訪れ、テレビの前に座る。「来るぞ、来るぞ」と前のめりになっているオーディンスに、「来たー! やっぱり、ジョーダンってすげー!」というカタルシスへと誘う。個人的にはお約束を裏切らない『吉本新喜劇』状態と呼んでいました。この高揚と満足感のループが、ジョーダンを別格なプレイヤーにしたのではないでしょうか。高いレベルの期待感に、常にそれ以上のプレイで応える。確実に“持っている”稀有なアスリート。だからこそ、ジョーダンは今でもカリスマなのでしょう。
カリスマ性といえば、初めてジョーダンと会話した時のことが強く印象に残ってます。学生時代からNBA取材を始め、NBAに関する書籍も2冊執筆させてもらった僕は、縁あって当時のストリートファッション雑誌『Boon』で仕事をすることになりました。21歳の頃だから’90年。「LAに行ってジョーダンの取材ができたら、飛行機代を出してもらっていいですか」と編集長に無理を言って、プレス取材の申請して。今は難しいかもしれませんが、あの頃はメディアパスでロッカールームに自由に入れて、そこにジョーダンがいて。最初にジョーダンにかけられた言葉は「コーラを取って」でした。21歳の僕は幼くみられてボールボーイと思ったみたいで。すぐに首からぶら下がっているメディアパスにジョーダンが気付いて「ごめん、ごめん、メディアか」と。日本から来たと伝えたら、「飛行機で何時間かかる」と聞かれ、「9時間か、僕は6時間以内しか飛行機に乗らないから日本には一生行けないなぁ」とジョークを飛ばされて。その後、3回ほど来日しているんですけどね。最初の出会いから、何度か取材を重ねるうちに番記者ではないが、「今日もいるね」とジョーダンから声をかけてもらえるようになり、いろんな話を聞かせてもらえるようになりました。
2003年にワシントン・ウィザーズで引退した後のインタビューも忘れられない思い出ですね。ジョーダンはワインやシガーが大好きなのですが、そのシガーのカッターで人差し指の先を切ったのだと言いました。「誰にも言うなよ。傷が思いのほか深くて、指先の感覚がないまま1年間プレイしたけど、やっぱりシュートが自分通りじゃなく楽しくなくなった。だから、辞めることを決めたんだよ」と真剣な表情で言うのですが、それがその時は冗談なのか、本当なのかわからない言い方で話すんです。公には「怪我は引退決断に影響していないと」と発言しているので、ジョーダン流のジョークなんですが。そういう茶目っ気というか、チャーミングさもジョーダンが人を惹きつける魅力だと思いました。
これもまたジョークか、本心なのか分かりませんがこんな話もしてくれました。空を駆けるようにして、いつものポーズでダンクをするとき、どんな気持ちなのかと問いかけたら、「あれは、僕のプレイを世界にプロモーションする最高の瞬間。だから、ステップに入ったら、エンドラインにカメラを構えて並んでいる10人のフォトグラファーいたら、その全員にカメラ目線を送ってからダンクするんだよ」とさらりと答える。普通にシュートできるところでも、セルフプロデュースを意識してみんなの目を引くようなダンクを決める。運動神経に優れているだけがスポーツ選手ではない。プロアスリートはエンターテイナーでなければならない。徹底した意識と姿勢もまた、ジョーダンを特別なスーパースターへと押し上げたのだと思います。
「黒人として道を切り拓く」という意識の高さも、ジョーダンはこれまでのNBA選手と大きく異なっていました。生まれはニューヨークのブルックリンですが、少年時代からノースカロライナ州ウィルミントンで過ごし、ノースカロライナ大学を経てブルズに入団。ウィルミントンの街には黒人が多く、当時はアメリカ全土でまだ白人との貧富の格差もだいぶあって、鬱屈した気分もそこかしこにあったはず。マジック・ジョンソンはLAが拠点でハリウッドスターだったし、今も現役のレブロン・ジェームズはVVIPセレブを自認しているように見えます。もちろんジョーダンもセレブとして一目を置かれながらも、その立ち振る舞いは「黒人の街から出て、NBAプレイヤーとして頂きを目指す漢」というムードが絶えることはなかったと思います。まさに、バスケ界のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアといった感じもあって。圧倒的な存在感でした。だからこそ、ブラックカルチャーから大きな支持を得たのだと僕は思っています。
1985年にLL COOL Jはリリースのデビューアルバム『RADIO』のジャケットでAJ1を履いていて、PVでも愛用していました。近年でも、AJ1を身に付けた姿が目撃されています。〈ナイキ〉を代表するレジェンド・デザイナー、ティンカー・ハットフィールドが手がけたAJ3では映画監督のスパイク・リーを起用してキャンペーンを展開。AJ4の時は制作されたジョーダンとスパイク・リーの身長差をコミカルに表現したプロモーションは今なお名作とされています。スパイク・リーもマジソン・スクエア・ガーデンのコートサイドや映画関係のセレモニーなどでAJ1を愛用することが多く、「スパイジーク」というAJシリーズをカスタマイズドしたモデルもローンチしているほど。最近はトラヴィス・スコットとのコラボレーションでAJ1のサイドのスウッシュを反対向きにしたモデルの人気は凄い。AJ1の誕生時から続くブラックカルチャーとの共鳴は、ジョーダンの黒人としての矜持への支持、そして共感に他ならないのではないでしょうか。今は成功して裕福な黒人も増えているし、ジョーダンのような尊厳に満ちたスーパースターは、1985年という時代だからこそ誕生できたのかとも思います。
1999年1月にジョーダンが2度目の引退を発表したことが大きく影響し、AJシリーズを取り巻く環境は変わっていきました。スニーカーブーム自体が沈静化したこともありましたが、そんなタイミングで幸運にもAJ1の企画に携わる機会を得ることに。僕は1998年に代官山に『T6M』というセレクトショップをオープンして、〈ナイキ〉のシューズやアパレルを販売していました。ジョーダンの取材中にAJシリーズの話になって、ジョーダンブランドをV字回復させるアイデアってあるとジョーダンに聞かれ、「AJ1を“オリジン”として日本で復活させるのはどう?」と返事をしました。そんな何気ない会話の後で〈ナイキ〉のスタッフから僕に話があって、それを〈ナイキ〉が1年ぐらいかけて具現化し実現したのが、2001年の元旦。日本企画として「AIR JORDAN 1 RETRO HIGH OG CO.JP」として発売されました。これまでにないニュートラルグレーとメタリックシルバーの色の組み合わせで、ジュラルミンケースに収められた特別仕様。『T6M』が先行して販売をさせてもらいました。日本限定で2001足で、『T6M』が他店舗に先行して販売をさせてもらいました。まだSNSはない時代だったので、2000年12月25日発売の雑誌『COOL TRANS』のみで告知のみでした。そこからの拡散で大行列ができて、スニーカーの販売で大行列ができたのは日本では久しぶりの光景でしたね。“CO.JP=コンセプト・ジャパン”の先駆けにもなり、今振り返ってもセンセーショナルなモデルになったと思います。
マイケル・ジョーダンのNBAでのファッションの影響力という点では、試合会場に入るときのスーツ姿が印象的でした。黒人特有のシルエットというか、肩幅が広めで、お尻が完全に隠れるくらい丈が長いジャケットが好み。ベージュや茶系を着ていることが多かったと思います。ジョーダンは顔が小さくて、体が大きいから、とにかくよく似合う。シカゴの馴染みのオーダースーツ屋で生地やパ型紙を自分の好みにオーダーをして、1回の買い物で50着ぐらいをオーダーしていたと聞きました。ブルズが1回目の優勝をする頃には自宅に来てもらい、200着くらいから気に入ったものをピックアップするようになったそう。当時、NBAではジャージ姿で会場にくる選手も多く見かけましたが、ブルズの全盛期にはブルズの選手はもちろんNBA全体でもスーツ姿で会場入りが定番になっていました。ジョーダンに影響された選手も多くいたでしょうし、ジョーダンはチームメイトにはスーツをプレゼントしていると言っていました。練習着の独自のアレンジにもジョーダンのスタイルを感じましたね。クルーのスウェットやTシャツの袖をカットオフして、裾はタックイン。本人にその意識はなかったかもしれませんが、コート上でもどこか洒落ているのがジョーダンだったと思います。
マイケル・ジョーダンの放つオーラ、神業的なプレイ、ブラックカルチャーとの親和性。
そのすべてが相まって、人々はジョーダンに惹きつけられ続けています。ジョーダンは引退してしまいましたが、AJ1そしてAJシリーズに足を通せば、ジョーダンという類稀なプレイヤーの息吹をいつだって感じることができる。
もしAJ1が誕生しなかったら……。あるいは1985年にNBAから禁止されて使用を辞めていたら……。〈ナイキ〉は現在のようなスポーツブランドには成長していなかったでしょうし、退屈な世の中になっていたかも。AJ1はそれだけのエポックメイキングで永遠に続くスニーカーなのだと思います。
プロフィール
北舘洋一郎
きただて・よういちろう|大学時代からやファッションやNBA関連書籍の編集・執筆活動をする。『マイケル・ジョーダン黄金伝説』『NIKE DESGIN』『NBA大辞典』などを出版。NHK-BSの『NBA中継』の解説も務めた。現在はBリーグの某クラブの代表取締役/GMを務める。
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