TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#3】デ・キリコの影、小さな方の椅子に座っていつかもう一度話せたら。

執筆:田口かおり

2024年12月24日

 デ・キリコ展が終幕した。作品のコンサバターとして関わっていた展覧会であり、東京と神戸の会場で定期的に状態を確認してきた8ヶ月だった。ひとつひとつの絵画や彫刻を点検し、埃をはらい、写真をとって、梱包を見守る。どんな展覧会でも、作品をおさめた箱(クレート)が音をたてて閉まる時には心寂しい。もうこれほどの近さで今の作品を見ることは生涯ないかもしれない、と思う。実のところ、今回はことのほか胸が攣れるような名残惜しさがあった。ローマからやってきていたクーリエ(作品の輸送に立ち会う学芸員や修復家)に「もう帰っちゃうなんて寂しいね」と話しかけたら「いつでも作品に会いにきたらいいよ、デ・キリコは逃げないから」と背中を陽気にぽんと叩いてくれた。

 もちろんそう、デ・キリコは逃げないだろう。とはいえ、すぐに会いにいくのも申し訳ないような気持ちが、実はある。なぜなら、「この画家と十分に知り合わないままに展覧会が終わってしまった」という後ろめたさのようなものが、どこかに燻っているからである。

 展覧会の点検を担当することが、年に何度かある。ひとりの画家の作品を集中的にみると、そのひとに以前より親しみ、いくぶんか距離を縮めることができたといいう心持ちになることが多い。ところがデ・キリコについては、なかなかその感覚に辿りつくことができなかった。

 絵画技法に目を凝らした春夏秋冬を経て感じたこと、それは、この人はとても不思議な画家だ、ということに尽きる。生涯を通じて画家の技法が変容することは当然といえば当然なのだが、それにしてもあまりに大胆なスタイルの変遷に驚かされる。時にはルネサンス・バロック風の静謐な構図に走る大ぶりで素っ気ない筆致に、時にはごつごつと砂を混ぜたかのような凹凸が特徴的な地塗りに、時には不均一なワニスのむらに、面食らった。馴染みのモチーフ──たとえばマネキン、ビスケットやマカロニのようなもの、家具、塔、広場──が顔をのぞかせたところで、「ああ、これね、知っているから大丈夫」と油断できない。描画層を観察するたび、一点一点、どこかしらが風変わりなのである。

 各地を転々とし、戦争や論戦に揉まれ、充実した時期があっても(たとえばいっとき、パリの前衛芸術家たちや初期のシュルレアリストたちに囲まれて過ごしたパリでの日々のように)、いつのまにか敵を作りがちであった「異邦人」、デ・キリコ。彼が残したいくつかの肖像画もまた、残された顔写真に風貌こそそっくりであるが、どうにも掴みどころがない。ただ、点検の最後の最後、《谷間の家具》のシリーズの一枚を見ていた時に、デ・キリコの佇まいを感じとることができた瞬間がかろうじてあったようにも思う。

©︎SIAE, Roma & JASPAR, Tokyo, 2024 E5852
提供:akg-images/アフロ

©︎SIAE, Roma & JASPAR, Tokyo, 2024 E5852
提供:akg-images/アフロ

 トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館が所蔵する《谷間の家具》である。荒野の一区画に、椅子や家具が乱雑に置かれている。一脚の背の高い椅子に向き合うようにして、衣装棚が置かれており、正面についている楕円形の鏡に、ぼんやりと半身像が浮かび上がっているかのようにみえる。アルベルト・ジャコメッティの彫刻を思わせる、青白く顔のない細長のシルエット状のもやを眺めるうち、自分は今、空の椅子に腰掛けたデ・キリコの鏡像を目にしているのでは、という考えが浮かんだ。

 「谷間の家具」の着想源として画家が語るのは、幼い頃に経験した地震の際に道端に運び出される家具を眺めていた経験である。主人も持たず置き去りにされた椅子の数々は、その空隙をもって不穏な記憶を語り直し、ひっそりと寄り添う衣装棚の鏡にうつる歪んだ像と子供用とおぼしき小さな椅子は、画家に幼少期の己との対話を神経質に促しているようにもうつる。

 空っぽの大きな椅子に座っているのがデ・キリコならば、と作品の梱包を見守りながら考える。あの小さなほうの椅子に腰掛けて、彼に向かいあい尋ねたいことがたくさんある。あの絵具はどうやって作ったの? 筆跡がうねる不均一な地塗りはいつから採用したの? なぜあえてあの額縁を選んだの? そもそもどうしてあの時……云々。質問を重ねすぎて、デ・キリコがそれこそ逃げ出さないように、気をつけなくてはいけないだろうけれど。

プロフィール

田口かおり

たぐち・かおり|1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は保存修復史、修復理論、美術史。東海大学教養学部芸術学科准教授などを経て、現在、京都大学人間・環境学研究科総合人間学部准教授。近現代美術の保存修復や調査のほか、展覧会コンサバターとしても活動中。著書に『改訂 保存修復の技法と思想——古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(平凡社ライブラリー)『絵画をみる、絵画をなおす 保存修復の世界』(偕成社)など。