TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#2】旅、果物と埃の匂い、エナジー・バー的な断面、棗の甘み。
執筆:田口かおり
2024年12月17日
韓国へ行ってきた。光州ビエンナーレの最終週、ニコラ・ブリオーのディレクションのもと展示される作品たちを見ておこうと思いたち、短い旅に出たのである。飛行機を乗り継いで光州空港に辿りつき、当地の香りを吸い込んだその瞬間、目の前がきらきらとひらけて信じられないほどすこやかな気持ちになったので、笑ってしまった。いつもとは違う場所で呼吸をしていることが嬉しい。寒いことも、まるきり土地勘がないことも、韓国語に自信がないことも、なにもかもが素晴らしい。旅ってなんて良いものなんだろう。ふりかえってみれば、コロナ禍以来、ほぼ4年ぶりの国外である。コロナ禍の直前にニューヨークへ出向いたことが、もはや遠い昔のことのように思える。
朝鮮の伝統的民俗芸能である「パンソリ」そして「サウンドスケープ」のキーワードを冠する今回のビエンナーレでは、おそらくさまざまな音──聴覚がひとつの鍵となる作品が多いのだろうという予想の答え合わせをしながら会場をまわるなかで、むしろ匂い──嗅覚を刺激する作品が印象に残った。ガレ・ショワンヌのインスタレーションでは、床に点在する果物のうっすらと熟れた気配と焚かれた香がまじりあって作品への道標となっている。サーダン・アフィフが旧警察署で展開した《永遠のパビリオン》では、場に蓄積した幾層もの埃や塵、湿ったコンクリートと黴の見知った匂いが鼻先を刺激するので、知らずと呼吸が浅くなった。こうした作品がある一方で、たとえばケヴィン・ビーズリーが、Tシャツやドレス、靴紐などを無臭透明な樹脂のなかに封じ込めているさまもおもしろい。ぎゅっと圧縮された色とりどりの端切れは、エナジー・バーのような歯応えを想起させる側面を堂々とさらしていた。眺めているうちに猛烈にお腹がすいて、近くの喫茶店に入りキャラメルナッツのチョコレートケーキを食べ、甘みのある紅茶を飲んだ。普段あまり食べないものが無性に欲しくなる、これも旅の常である。
ガレ・ショワンヌのインスタレーション風景(光州ビエンナーレ) 撮影:田口かおり
韓国に来るのは、人生で3度目だ。1度目はまだ幼かった頃、船旅が好きな母の希望で、家族で連れだって釜山を訪れた。あの時もとても寒くて、温かいお茶を頂ける喫茶店を探して朝靄の波止場を歩きまわった。右手に握りしめていた母の黒い上着のもくもくした袖口をよく覚えている。お店で頼んだお茶にはじめて味わう甘い風味があって驚いたことも。この紅茶に少し似ているな、ともう一度ゆっくり口に含む。懐かしい、棗のような味がした。
旅に出ると、もう会うことが叶わない人のことを思う。同時に、これから自分はいくつ見知らぬものに出会い、いくつそれを忘れていくのだろう、ということを。どちらの考えも胸に一瞬影を落とすけれど、それでもやっぱり、旅は素敵である。いつもの場所から離れ、動き、眠り、目覚める。いくつかの朝と夜を繰り返すうち、実のところどこまでも自分は自由なのだ、というきっぱりとした確信を、必ず取り戻すことができる。
プロフィール
田口かおり
たぐち・かおり|1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は保存修復史、修復理論、美術史。東海大学教養学部芸術学科准教授などを経て、現在、京都大学人間・環境学研究科総合人間学部准教授。近現代美術の保存修復や調査のほか、展覧会コンサバターとしても活動中。著書に『改訂 保存修復の技法と思想——古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(平凡社ライブラリー)『絵画をみる、絵画をなおす 保存修復の世界』(偕成社)など。
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