TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム
【#1】絵画の音、亀が鳴くような。
執筆:田口かおり
2024年12月10日
先日、生まれてはじめて、メスの刃が絵具を切り取る音を耳にした。ほとんど幻聴かと思うほどのささやかさだったが、ぴきり、と絵具層が音を立てた。最初に頭をよぎったのは、亀が鳴くような、ということだった。小説や俳句のなかで目にしたことがあるだけの言い回しで、実際には知らない亀の鳴き声。それでも確かに、私はその音を聴いたのだ。
私は、絵画や立体作品などの保存修復をなりわいとしている。作品の一部が物理的に不安定な状態になっていれば処置をすることもあるが、最近ではむしろその前段階でのこと──つまり、目の前の作品をよく観察して調べ、組成や制作技法、来歴をあきらかにするような仕事が増えている。美術作品を調査する際には、顕微鏡や紫外線、赤外線、エックス線などをつかういわゆる「非破壊」の光学調査が調査手法の主軸になることがほとんどだ。ところが今回だけは、絵画を描くのに用いられた絵具の成分を何としてでも特定しなくてはならないというのっぴきならない事情があって、かなりイレギュラーなことながら、絵具片を採取することになったのだった。
0.2~3mmほどの小片を、絵画表面から削りとる。こう書いてしまえば一行で終わる作業なのだが、緊張のあまり呼吸が乱れてしまって、時間をかけて気持ちを落ち着かせなくてはならなかった。作品の一部を「壊す」ことでしか実施できない調査に良心の呵責がないと言えば嘘になる。できれば行いたくない、行うのならば必要最小限で、と、同業者なら誰もが思うだろう。冷たいメスを握りなおしながら、それでも、と私は記憶をたどる。イタリアの修復工房で仕事をしていた15年前には、これほどまでには緊張しなかったのに。もう少し落ち着いてサンプルを採取できていたのに、と。
あの頃、耳に届くことのなかった音が聴こえるのは、年齢と経験を重ねるなかで、この仕事により怖さを感じるようになったからかもしれない。何かを保存し修復するということは、何かを選ぶことであり、何かを選ぶということは、そこからこぼれ落ちるものや失われるものがあるということでもある。絵画を洗浄すれば埃は拭われ画面に光が戻るかもしれないが、そこに蓄積していた灰色の時間の痕跡はもう戻ってくることはない。もちろん、保存修復や調査のすべては作品をより安全に展示し活用すること、より長い保存を目指して行われるものだ。それでも、自分のひとつひとつの選択が、間違いなく作品を変容させていくこと。何かを壊すことでしか、何かを残すことはできないのかもしれないこと。そのことが、恐い。ただこの怖さは、おそらく私が得たかけがえのない糧なのだろう。保存修復とは、怖いことである。この実感と絵画の鳴き声を心に刻みながら進む牛歩のなかで作品に向き合い、万年は叶わずとも可能なかぎり残す術を探っていくしか、道はないのではないか、と思うことがある。
亀鳴く、は春の季語だ。次の春がめぐってくる前に、私はこの作品がどのような成り立ちのものなのか、使われている絵具を含めて、できるかぎりのことを明らかにしたいと考えている。
プロフィール
田口かおり
たぐち・かおり|1981年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。フィレンツェ国際芸術大学絵画修復科修了。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は保存修復史、修復理論、美術史。東海大学教養学部芸術学科准教授などを経て、現在、京都大学人間・環境学研究科総合人間学部准教授。近現代美術の保存修復や調査のほか、展覧会コンサバターとしても活動中。著書に『改訂 保存修復の技法と思想——古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』(平凡社ライブラリー)『絵画をみる、絵画をなおす 保存修復の世界』(偕成社)など。
関連記事
カルチャー
「リンダリンダ」と撮影できない展覧会
文・村上由鶴
2024年11月30日
カルチャー
「エフェメラ」を探して。Vol.1
『telescope』とエフェメラコレクション編
2024年6月5日
カルチャー
「エフェメラ」を探して。Vol.2
継承される『清里現代美術館』編
2024年6月12日
カルチャー
「私は新宿である」ヴィヴィアン佐藤さんロングインタビュー。/前編
「新宿ゴールデン街 秋祭り」開催間近の特別企画。読者プレゼントも!
2024年11月6日
カルチャー
「私は新宿である」ヴィヴィアン佐藤さんロングインタビュー。/後編
「新宿ゴールデン街 秋祭り」開催間近の特別企画。読者プレゼントも!
2024年11月6日
カルチャー
『Goozen(グーゼン)』という名のギャラリー。
障害のある人もない人も、すべてが交わる小さな場所。
2022年10月6日
ピックアップ
PROMOTION
〈THE NORTH FACE〉僕はこの冬は〝ミドラー〟を選ぶことにした。
THE NORTH FACE
2025年10月24日
PROMOTION
富士6時間耐久レースと〈ロレックス〉。
ROLEX
2025年11月11日
PROMOTION
秋の旅も冬の旅も、やっぱりAirbnb。
Airbnb
2025年11月10日
PROMOTION
クリエイターたちの、福祉に関わる仕事。
介護の仕事のことをちゃんと知ってみないか?
2025年10月23日
PROMOTION
新しい〈シトロエン〉C3に乗って、手土産の調達へ。
レトロでポップな顔をした、毎日の相棒。
2025年11月11日
PROMOTION
お邪魔します、「Polo Originals & Friends」。
W・デイヴィッド・マークスさんと見つけた、今の時代の「自由」なトラッド。
2025年10月21日
PROMOTION
職人技が光る大洋印刷とプロのバッグ。
Taiyo Printing
2025年11月8日
PROMOTION
心斎橋にオープンした〈リンドバーグ〉で、 快適かつ美しいアイウェアを探しに行こう。
2025年11月5日
PROMOTION
「Polo Originals」とは何か?
それは〈ポロ ラルフ ローレン〉の世界観の名前。
2025年10月21日
PROMOTION
Polo Originals × POPEYE LOOK COLLECTION
2025年10月21日
PROMOTION
NORMEL TIMES初のショートフィルム『遠い人』の玉田真也監督にインタビュー。
NORMEL TIMES
2025年10月30日
PROMOTION
11月、心斎橋パルコが5周年を迎えるってよ。
PARCO
2025年11月10日
PROMOTION
〈ACUO〉で前向きにリセットしよう。
Refresh and Go with ACUO
2025年10月29日
PROMOTION
心斎橋PARCOでパルコの広告を一気に振り返ろう。
「パルコを広告する」1969-2025 PARCO広告展
2025年11月13日
PROMOTION
〈バレンシアガ〉Across and Down
Balenciaga
2025年11月10日
PROMOTION
「Polo Originals」の世界へ、ようこそ。
2025年10月31日