カルチャー

コーマック・マッカーシー著『ステラ・マリス』をレビュー。

クリティカルヒット・パレード

2024年8月27日

illustration: Nanook
text: Kohei Aoki
edit: Keisuke Kagiwada

アメリカ文学を研究する青木耕平さんが新しい小説をレビューする「クリティカルヒット・パレード」。今回取り上げられるのは、コーマック・マッカーシー著『ステラ・マリス』だ。

『ステラ・マリス』
コーマック・マッカーシー(著)
黒原敏行(訳)
¥3,080/早川書房

(※今回のクリティカルヒット・パレードで扱う『ステラ・マリス』は、前回紹介したコーマック・マッカーシー『通り過ぎゆく者ザ・パッセンジャー』の姉妹編であり、対をなす作品です。日本では2024年に両作が同時発売されましたが、アメリカでは2022年末、『通り過ぎゆく者The Passenger』より二ヶ月後に刊行されました。というわけで、二ヶ月前に公開された『通り過ぎゆく者』評を未読の方は、そちらをまずお読みください!)

『ステラ・マリス』。コーマック・マッカーシーによる生前最後の作品。本書冒頭一ページ目には、書籍タイトルでもある「ステラ・マリス」の説明書きが置かれている。それはアメリカのウィスコンシン州にある精神病院の名であり、ラテン語で「海の星Stella Maris」を意味し、闇夜に彷徨う船を導く「北極星」を指し、それが転じて「聖母マリア」も示す。

 続く2ページ目には、とある入院患者の情報録が掲載されている。それが記された日時は1972年10月、患者は二十歳のユダヤ系白人の女性であるアリシア・ウェスタン。アリシアの略歴と病状について、「患者はシカゴ大学の数学科博士課程に在籍、精神分裂病に罹患して長年にわたり幻覚および幻聴の症状を呈している」と記載がある──。

 この時点で、『通り過ぎゆく者ザ・パッセンジャー』を読んでいた者は戦慄する。少なくとも評者はそうだった。というのも、『通り過ぎゆく者』の舞台は1980年代初頭であり、わたしたちはその物語の中で、アリシア・ウェスタンが10年前──つまり本書の舞台となる頃──に自殺したことを知っているからだ。

『通り過ぎゆく者』でも本書でも、アリシアの容姿が非常に美しいということが強調される。かつてエドガー・アラン・ポーは、「詩作の哲学」の中でフィクションを描くにあたり「最も詩的なポエティカルトピックは美しい女性の死だ」と主張し、「それを語るに最も相応しいリップの持ち主は彼女を失った恋人だ」と定式化している。『通り過ぎゆく者』は、一見するとこのポーの理論に従っているかのようだ。しかし、美しい女性アリシア・ウェスタンの死を語るボビー・ウェスタンはアリシアの実の兄であり、ボビーのリップは決してアリシアの死を語ろうとせず、悲しき詩情ポエジーのみが作品に漂った。

マッカーシーは本書刊行に先立つ2016年に公開イベントに登壇し、こう語っている:

 

人間の経験の核心にあるものは悲劇であり、我々はそれに対処せねばならない。そのことが人生を困難にする。どのように悲劇に対処するか、その方法こそが真に我々が知りたいと願うものだ。それは避けることのできないものだからだ。偉大な古典文学はすべて、人々に起こる、本当は起こらなければよかったと思うような出来事こそを描いている。

 兄ボビー・ウェスタンの経験の核心にあったアリシア・ウェスタンの死。本当は起こらなければよかった悲劇。アリシア最後の日々を、マッカーシーは生前最後の作品とした。

 書籍としての『ステラ・マリス』では、アリシアの情報録が記された2頁目以降、一切の「地の文」が消失する。本編250頁を通してあるのは、アリシアと医師との対話のみ。話し手はいるが語り手はいない。描写がなく、セリフを括る記号(「」)は省かれ、戯曲のようなト書きもない。アリシアと医師の対話以外にあるものは、それが第何回目のセッションかを示す、数字だけである。

 第一セッションの中で、話題が知能検査に及んだ時、二十歳にして数学科博士課程在籍中のアリシアは知能検査員たちが数学を理解していないと辛辣に述べ、「知性は数字。言葉じゃない。言葉は人間がでっち上げたもの」と語る。なぜ知性は数字的なのかと問う医師に対し、アリシアは「たぶん初めからそうだったのかもしれない……最初の言葉が生まれる百万年前からね」と返す。

 第二セッション、「どこから始める?」と患者であるアリシアの方から問う。「初めから」と述べる医師に対し、「初めに言葉ありき In the beginning was the word」とアリシアは返す。しかしすぐさま医師はこう彼女をなじる──「でもきみはそれを信じていないね

 この会話で仄めかされているのは、新約聖書における四大福音書の中で最も文学的かつ哲学的とされる「ヨハネによる福音書」の書き出し「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。このことばは初めに神と共にあった」である。

 さて、この新約聖書ヨハネによる福音書の書き出しは、旧約聖書『創世記』の書き出しを踏襲している──「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった」。

「初めにことばがあった」における「ことば」とは、ロゴスつまり論理や理性のことであり、執筆者ヨハネはイエス・キリストを意味するものとして「ことば」を使っている。新訳聖書の原文はギリシャ語であるが、英訳聖書における該当箇所は「初めにことばがあった In the beginning was the Word」である。つまり、アリシアはここで自ら天地創造とキリストについて触れながら、それへの不信を表明し、「初めにあったのは無だった」と述べる。アリシアは同様に、言語よりも先に無意識があったと主張する。言語の侵入により、無意識の領域は荒らされてしまい、未だそれに対処できていない。アリシアはいう、悪人は善人よりも知性が高い、なぜならエデンの園でサタンは知恵の木の実でアダムとエヴァを誘惑したのだから──。

 ここであらためて本書タイトル「ステラ・マリス」が聖母マリアを指すことの含意が明らかとなる。ロゴスとしてのキリストを腹に宿す前の、乙女マリア。言語より先にある無意識。善悪の前、光よりも前にあった、闇としての数字。そして、アダムの肋骨よりできたエヴァが、アダムと結ばれなかった場合の、非存在としての人類。

 マッカーシーが生前最後に遺した本作は、あまりに難解である。原書刊行より二年が経とうとしている現在も、オンライン上で日々新たな解釈が投稿されている。ここ日本でも山形浩生氏が数学と物理の関係性から非常に興味深いブログを書いている。山形氏が述べるように、マッカーシー本人が物理学や数学に通じた人であり、本作を真に理解し適切なレビューを書けるのは理数系知識人なのかもしれない。(残念ながら評者にはそのような知識も能力もないので、本稿では文系的な理解に留まることをご容赦願いたい)

 海外書評で必ずと言って言及されるのは、「原爆の父」たるオッペンハイマーである。『通り過ぎゆく者』ですでに明らかになっていたことだが、ボビーとアリシアのウェスタン兄妹の父はオッペンハイマーの部下であり、原爆開発に携わっていた。『ステラ・マリス』ではこの父の過去がより詳しくアリシアの口から語られ、オッペンハイマーと異なり父親は投下後の広島を現地視察していたことが明らかとなる。アリシアはこう述べる:

 

マンハッタン計画 [*原爆開発計画] が人類史上最も意味のある出来事の一つであることを理解していない人はぼんやりしすぎてる。あれは火の使用と言語の発明に並ぶ出来事だった。最低でも三番目だしもしかしたら一番かもしれない。わたしたちはまだそれを知らない。でもいずれ知ることになる。

 すでに述べたように物語の舞台は1972年、いまだ米ソ冷戦の対立の最中であり、ベトナム戦争は継続中で、世界中が核の恐怖に怯えていた。この時期、多くのフィクションが核戦争による世界の終わりを描いた。それから冷戦が終わり、核による戦争の危機は去ったかに思えた1990年代以降も、マッカーシーは「国境三部作」や「ザ・ロード」で核や世界の終わりを描き続けた。本書と『通り過ぎゆく者』を読むことで、コーマック・マッカーシーという作家がどのようなオブセッションを抱えていたのかは確かにクリアになる。しかし、作品の謎は、まったく解けない。本書を読んでも、アリシアがなぜ自殺したのか、謎の核心は明らかにならない。

 アリシアは物語時点で一万冊の本を読んだ、と主張している。自殺した人間の過去の語り、家族の物語、異常なほどに博識な若者、という点で文学史的な先行作品はJ.D.サリンジャーによる「グラース家もの」とりわけ『ハプワース16、一九二四』だろう。兄妹の禁じられた愛と妹の死からフィリップ・K・ディックとの関連を指摘するものもいる。また、「言語よりも潜在意識は古い」というマッカーシー本人の言葉をアリシアに語らせているが、これは「言語は宇宙から飛来したウイルスだ」としたウィリアム・バロウズの着想だとする向きもある。

 なかでもアメリカのネットを中心に最も盛り上がっているのは、デヴィッド・リンチによるドラマシリーズ『ツイン・ピークス』とのあまりに多い共通点だ。本稿に許された紙幅はここまでなので詳述できないが、興味を持たれた方はぜひ『ツイン・ピークス』を視聴されたい。

 要領を得ずにダラダラと締まりのない文章を書いてしまったことを謝りたい。私は結局、この作品について何もわかっていないのだ。2022年に英語で読み呆然とし、2024年に邦訳で読んでも途方に暮れている。しかし、この小説には何か無視できないものがある。あまりの寂しさに背筋が凍る。こんなものを生前最後に書いたコーマック・マッカーシーという書き手に慄く。十人目のパッセンジャーとは誰だったのかと、そのマクガフィンを追って最後にたどり着くグラウンド・ゼロの孤独。オブセッションは書かれた言葉によって伝染する。書かれた言葉は死なない。まったく、タチが悪いぜ。

レビュアー

青木耕平

あおき・こうへい|1984年生まれ。愛知県立大学講師。アメリカ文学研究。著書に『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』(共著、書肆侃侃房)。