ライフスタイル

【#4】真下の住人

執筆: 稲川淳二

2023年8月30日

text: Jyunji Inagawa
edit: Yukako Kazuno

これは、ある男の人の話なんですが、仮にカトウさんとしておきましょうか。

この方、物がふえて、部屋が狭くなったので、

(もう少し、広いところへ越したいなぁ、

それも、できれば、住み馴れた今と同じ、

JRの駅の近辺だったら、あれこれと都合がいいんだけどなあ)

と思っていたら、

ちょうどいいマンションが見つかった。

それは、今、自分が住んでいるJR駅の、にぎやかな方、

南口とは逆の、まだあまり開けていない、北口にあった。

今のところより、広くて家賃も安い部屋があったので、

早速、引っ越した。

駅までの距離も前とそう変わらないから、出勤時刻も変わらないし、

物もすっきりと片づいて、以前よりも、いくらか快適な生活が始まったわけですよね。

そして、一ヵ月ほどたった夜中の事、疲れて眠っていると、

突然、プルルル、プルルル、プルルル、電話が鳴った。

夜中の電話って驚きますよね。

そんな時刻に、電話がくるという事は、

なにか、よほど緊急を要する事が起こった場合で、

不吉なものを感じるじゃないですか。

あわてて電話に出ると、

『……もしもし、下のアサノですけど、ヤスコお邪魔してますか』

という、かすれた低い女の声がした。

間違い電話だ。

冗談じゃない、こっちは眠っているのに。

突然起されて、何かあったかと思って、

一瞬びっくりしたわけだ。

そうでなくても、ふだん部屋の電話なんか、かかってきやしないんです。

最近は、ほとんど携帯で用が足りてる。

掛けてくるとすれば実家の親くらいですよね。

まったく迷惑な話で、

どうやら、マンションの下の階の住人が、

上の階の部屋に遊びにでも行っている娘に、

「もう遅いから帰ってきなさい」

というような電話なんでしょう。

冗談じゃない、さすがにむっとしたんで、

「うちはカトウですけど、どちらへおかけですか⁉︎」

ときつい口調で言うと、

『すいません』

と先方が謝って、

カチャッと切っちゃった。

(何だよ、参ったな)

「下のアサノですけど」

と言われた瞬間、

もしや苦情の電話かと思ってドキッとしたんですよね。

(まあ、しょうがない、たまにはこんな事もあるだろう)

と、蒲団にもどった。

それから2日ほどして、一階のロビーにある郵便受けから、

たまっている郵便物を出していて、見るともなく、

何となく、

(自分の真下の部屋の住人は、なんていう人だろう)

と思ってふっと見た。

すると、下の402号室には、ネームプレートが入っていない。

(真下の部屋は人がいないのかなあ)

と思った。

しばらくして、

真下の部屋が、もうかなり前から空き室のままになっているということを知った。

それから何日かたって、

夜中に、

プルルル、プルルル、プルルル、電話が鳴って、起された。

何事だろうと、急いで、電話をとると、

受話器のむこうから、

『もしもし、下のアサノですけど、

ヤスコお邪魔してますか』

と言う、

かすれた低い女の声がした。

(何だ、また、あの女が間違い電話を掛けてきたのか)

さすがに、カトウさん、腹に据えかねたんで、

「うちは、カトウなんですけどね、

お宅、間違い電話、これで2回目ですよ、

迷惑してるんです」

と言うと、

『すいません』

と女が謝って、電話が切れた。

(冗談じゃねえなあ)

と思った。

どこかのマンションに、たぶん、自分と似たような電話番号の人がいるんでしょう。

でも、夜中ですからね、きちんと番号を確かめて、掛けるのが常識だろう、

と腹立たしく思ったわけだ。

その翌朝、会社に出勤するんで、1階に下りてくると、

ちょうど管理人さんと、ばったり顔が合ったんで、

挨拶がてら、別に話すつもりもなかったんですが、

ついつい、愚痴をこぼすともなく、話をしたんです。

「参りましたよ。夜中に間違い電話で起されて、

これで2度目なんですよ。

それも、前と同じ人からで、出ると、低いかすれた女の声で、

『もしもし、下のアサノですけど、

ヤスコお邪魔してますか』

って言うんですよ。

冗談じゃない。

こっちは何事かと、あわてて飛び起きて、出ると間違い電話なんですから。

どこかのマンションの人が、

上の階に遊びに行ってる娘に、もうお遅いから帰って来なさい、

というんで、掛けたんでしょうけど、

私のところと、似たような電話番号の家があるんですね」

と話すと、

聞いていた管理人さんの顔色が、見る見る変わっていったんです。

(あれ? どうしたんだろう、何か様子がおかしい)

と思っていると、

管理人さんが、

「実はですね、以前、このマンションに、

若い母親と幼い女の子の母子が住んでいましてね。

母親は駅の南口にある店で、夜遅くまで、客相手の仕事をしてたんですよ。

で、その間はというと、この幼い女の子が、ひとりで留守番するわけなんですが、

そんなときには、真上の部屋の老夫婦が、この子をかわいがっていましてね、

母親が帰って来るまで、面倒を見てくれてたんですよ。

だから、女の子は母親が仕事に出ると、お年寄り夫婦の部屋へ、遊びに行ってたんですよ。

母親が帰ってくると、下の自分の家へ戻っていくんですがね、

たまに、老夫婦のところで寝ちゃうらしいんです。

そんなときには、母親が迎えに行って、女の子をかかえて帰っていましたがね。

ところが、あるときなんですが、

この日は、老夫婦が親類に用事があって、出かけていて留守だったんですよ。

幼い女の子は行くところがないもんですからね、

この日は自分の家で、ひとりで留守番していたんですね。

さぞや、母親の帰りを待ちわびていた事でしょう。

「そろそろ母親が帰ってくる時間になると、待ちきれずに、

バルコニーへ出て、帰ってくる母親の姿を見ようと思ったんでしょうね。

手すりにつかまって道を見詰めているうちに、

たぶん、知らずしらずに身を乗り出してたんでしょうかね、

何かのかげんで、あやまって落ちてしまったんですね。

やがて母親が帰ってきたんですが、娘の姿がないもんですから、

いつものように、真上の部屋の、老夫婦のところに電話をかけると、通じない。

その日、老夫婦が留守なのを思い出して、

慌てて、あちこち捜しまわったんですが見付からない。

そして、バルコニーへ出てひょいっと下を見たらば、

コンクリートのたたきに横たわっている、我が子を見つけたんですよ。

急いで駆け付けて、抱き上げた時には、

もう既に事切れてましてね。

この事故が、よっぽどショックだったんでしょうね。

それ以来、すっかり酒浸りになってしまって、

そして、ある日、部屋のガスの元栓を開けて、

亡くなったんですよ。

「遺書はなかったんですけど、

誰が見たって、自殺だと思われるものでしたがね。

その若い母親というのが、

アサノヨシコといいましてね。

幼い娘さんが

ヤスコちゃんといったんですよ」

という話を聞かされて、カトウさん、

ウワッ!

と思った。

さらに、管理人さんが、

「その上の部屋の老夫婦なんですがね、

それからしばらくして、このマンションを引き払ったんですよ。

やっぱり、孫のようにかわいがっていた幼い女の子が、そういう形で亡くなったのが、辛かったのと、

自分たちがいなかったので、死なせてしまったという罪の意識があったのかもしれませんがね。

ただ、老夫婦が引っ越すときに、親しい人に、

『夜中に電話が来る』

と言ってたそうです。

その部屋が、

今、貴方が入っている、部屋ですよ」

と言った。

それを聞いて、

カトウさん、ぞーっとした。

全身から、みるみる血が引いていくのがわかった。

(待てよ、ということは、自分のところへ掛かってきた電話のあの声、

あの女の正体というのは、生きている人間じゃなかったのか。

自分は死んだ女の霊と話していたのか……。

おいおい、よせよ……、勘弁してくれよォー………)

言いようの無い恐怖に声も出なかった。

(聞くんじゃなかったなァ)

と思った。

こうなると、すぐにでも、もどこかへ引っ越したい気持なんですが、

なにしろ、まだ引っ越して来たばかりなんで、

また、おいそれとは引っ越しできないので仕方なく、恐る恐る、夜をむかえたんですよ。

1日、2日と経って行くんですが、

電話はいっこうに鳴らない。

(どうやら、自分がきつく言ったから、もう、電話を掛けてこないのかなあ)

と思った。

そして日が過ぎていって、

ある晩、ぐっすり眠っていると、

夜中に突然、

プルルル、プルルル、プルルル、

電話が鳴って、思わず飛び起きた。

(きた。とうとう電話がきた。

あの女に違いない。

いや、女の霊がかけてきたに違いない)

全身がブルブルと震えて、ジトッと汗ばんできた。

(そうか、死んだ女の怨念は、霊となって、今も。真下の階の部屋にいるんだ。

そして、自分の部屋の下から、電話をかけてきているんだ)

と思った。

プルルル、プルルル、プルルル、

電話が鳴り続けている。

出るわけにいかない。

(どうしよう?)

耳を両手でふさいで、じーっと止むのを待つしかない。

電話は、

プルルル、プルルル、プルルル

と、なおも鳴り続けている、

(出るまで、ずっと鳴り続けるんだろうか?

勘弁してくれー)

と思った途端、

ふっと鳴りやんだ。

(ああ、やんだ……。

やっと、やんだ)

張りつめていた神経が、ふっとゆるんで、

一瞬、気が抜けたようになった。

(ああ、助かった)

と思っていると、不意に。

キンコーン、キンコーン、

玄関のチャイムが鳴ったんで思わず、

「はい!」

と返事をすると、

ドアの外から、

『……アサノですけど、

ヤスコお邪魔してますか……』

という、かすれた、低ーい女の声がした。

どうやら迎えにきたらしい。

プロフィール

稲川淳二

いながわ・じゅんじ | 談家・工業デザイナー。31周年全国ツアー『MYSTERY NIGHT TOUR 2023 稲川淳二の怪談ナイト』が開催中。稲川淳二の『稲川芸術祭2023』作品募集中。

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