ライフスタイル
【#2】原田さんのタクシー
執筆: 稲川淳二
2023年8月16日
原田さんという人が、東京で、タクシーの運転手を始めて、まだ日も浅いころの話です。
それは、平日の、夜の10時を回ったころ、小雨の降る、銀座を流していて、
運よく、千葉県の南房総まで、という長距離の客を拾うことができた。
これはよかった。
何しろ時間が時間ですから、
片道2時間半としても、行って帰って5時間ですからね。
帰ってくるころには、3時を回っているわけだ。
今日は、この客でしまいにしようと、すっかり気をよくして、会社に無線を入れた。
「112号車、銀座から実車です。
千葉県南房総まで」
『了解』
小雨の中、南房総へ向かったわけだ。
そして、無事、お客を送り届けた。
ひょいと時計を見るともう12時半を回ってる。
(ああ、いい商売できたな。さあ帰ろう)
と、空のタクシーで、今、きた道を戻っていくと、
そこへまた無線が入った。
会社から、
『112号車、予約です。
東京まで。
国道○号線を行った交差点、右に入ったところMホテル、女性の方です。
迎車お願いします』
「了解」
こんなこと考えられない。
自分は今、東京から南房総までの、長距離の客を送って来たわけだ。
で、空のタクシーで帰ろうとしたら、今度は、東京までの客。
これはもう願ったりかなったりですからね。
(こんなこともあるんだなあ)
と思って、すっかり気をよくして、ホテルへ向かった。
無線の感度が悪くて、はっきりと聞き取れなかったんですが、
まあ、大体のところは、わかった。
自分が、今、走っているこの道が、国道ですからね。
そのまま行ったら、交差点があって、右へ入っていくと、
やがて小雨の降る夜の闇の中に、黒い大きな建物の輪郭が見えてきた。
(ああ、あれだなあ)
と思って、タクシーを走らせて行くと、だんだんと距離が狭まってきた。
と、
(あれ? おかしいなあ—)
と思った。
というのは、建物が真っ暗なんですよね。
まあ、夜中の12時半を回っているんで、宿泊客は、ほとんど寝てるんでしょうけどね。
それにしたって、ホテルですから、明かりが、全くないというのはおかしい。
(変だなあ—)
と思いながら、ホテルの表玄関でタクシーをとめた。
やっぱりおかしい。
正面の入り口があって、
ガラスの扉の向こうに、ロビーがあるんですが、全て真っ暗。
ホテルなんですから、ロビーは四六時中、明るくしておくのが、当り前なのに、
どうしてこんなに真っ暗なんだろう、と思って、よーく見ると、あちこちが随分荒れている。
(あれ? このホテル廃屋じゃないのか—?)
どうやら、ホテルを間違えたかなと思ったんですが、
ほかにホテルのような建物は見当らない。
(ここしかないよなあ)
と思って、改めて玄関口の上を見ると、Mホテルの文字があった。
やっぱりここに間違い無い。
自分では多分、ホテルの宿泊客が、急用ができたので、
東京までタクシーを予約したんだろう、と思ったんですが、
でも、どうも、そうじゃないらしい。
考えられることは、この近所に住んでいる人か、その家に来ている人がなにかで、
急遽、東京へ行かなくてはならなくなって、予約をしたんですが、
場所がわかりづらいので、目印にこのホテルを選んだ。
そう考えれば納得がいく。
恐らく、そうだろうと思ったんで、パッパーッと、
到着した合図に、クラクションを鳴らして、待つ事にした。
ところが一向に現れない。
仕方無く、フロントウインドーから、小雨の降る外の暗い闇を眺めていた。
時々、ギーシュ、ギーシュと、
ワイパーが往復して行く。
(どうも嫌だなあ—)
と思いながら、周りを見るんですが、
全く明かりも無ければ、民家もない。
(えー? 一体予約の客はどこから来るんだろう?)
明かりといえば、自分が乗っている、このタクシーのヘッドライトの明かりと、
道路を挟んで、向こうにポツンと、ひとつ立っている、古い街路灯の明かりだけ。
他には何にもない。
明かりの無い、ホテルの真っ暗なロビーの奥から、
気味の悪いなにかが、今にも飛び出てきそうな気がして怖い。
(帰っちゃおうかなあ—)
とも思ったんですが、予約ですから、そうもいかな。
(遅いなあ、何をしてるんだろう?)
と思いながら待っている。
小雨がサアーと降っている。
時折ワイパーが、ギーシュ、ギーシュ、
と、フロントウィンドーを往復する。
もう一度、パッパーッと、クラクションを鳴らした。
(だめだな、こりゃあ、全然こないぞ)
と思って、小雨の降る夜の闇を、ボャーッと見てると、
不意に、コンコン、と運転席の後ろのウインドーがノックされた。
(あれ?)
と思って、振り向いて見ると、雨の雫が流れ落ちている、ウインドー越しに、
夜の暗い闇の中に、立っている女の白い横顔が見えた。
(あれ?)
と思った。
普通、タクシーというのは、歩道側のドアが、自動で開くわけですよね。
だから、乗客は進行方向の左側から乗ってくるわけだ。
ところがこの女は、右側に立っている。
で、原田さんが、グーッと手を伸ばして、ドアをあけながら、
「あのー、予約の方ですか」
と聞くと、黙ってうなずいて、タクシーに乗り込んできた。
乗り込んでくるときに、
布にくるんだ、赤ん坊を抱えているのが、目に入った。
女は座席に座ると、黙ったまま、なにも言わないので、
原田さんはドアを閉めて、
「あのー、東京方面へ向かって、よろしいですね」
と行先を確認すると、また黙ってうなずいたんで、
タクシーをスタートさせた。
小雨の降る暗い道を、タクシーが走って行く。
後にも先にも全く車がない。
闇の中を、このタクシーが1台、走っているだけ。
相変わらず女は黙っている。
東京までは、道のりも長いので、気持ちをほぐそうと、原田さんが、
「だんだん降りが強くなってきましたねェ」
と、話しかけてみたんですが、何の返事もない。
眠っているのか、なにか考え事でもしているのか、わからないので、
話しかけるのをやめた。
フロントウィンドーに当たる、細かな雨粒を、ワイパーが拭き取って行く。
ヘッドライトの明かりが、前方の小雨に煙る、夜の闇を、照らし出して行く。
ほかには、なんにも見えない。
エンジン音と、濡れた路面を行くタイヤの音と、ワイパーの音以外、何も聞こえない。
そのうちに、なんだか妙に、寒くなってきた。
(あら?)
と思った。
空気がヒンヤリしている。
おかしい。
季節は、もうそろそろ、初夏に入るころで、昼間は窓をあけて運転していたくらいなのに、
今は、雨が降っていて、窓を閉めているんで、蒸し暑いというならわかるんですが、そうじゃない。
車内が、ヒヤーと冷えてきた。
(やけに冷えるな—、なんだろう?)
と思いながら、タクシーを走らせていると、
不意に後ろで、
オギャア、オギャア、オギャア、オギャア、オギャア
赤ん坊が激しく泣き出した。
狭い車内に反響して、耳の奥がジーンと鳴った。
猛烈に泣いている。
それが、ゾクッとする異様な泣き声なんで、気持ち悪いなと思った。
オギャア、オギャア、オギャア、オギャア
すると女が、布にくるんだ赤ん坊を、両手で持ち上げて、
上下に揺すってあやしはじめた。
オギャア、オギャア、オギャア、オギャア、
オギャア、オギャア、オギャア、
オギャア、オギャア
と、やがてピタッと泣きやんだ。
(ああ、泣きやんだなあ)
と思っていると、不意に後ろから、
「かわいいでしょう」
と女の声がしたので、
「ええ」
と答えて、見るともなく、バックミラーに目がいくと、
(あれっ?)
っと、妙な感じがした。
よく見直してみた途端、
(ううっ)
と、危うく声を上げるのを押しとどめた。
女が、両手で抱えている布にくるんだ赤ん坊、その赤ん坊、胴体だけで頭がない。
ハンドルを握っている手が、じっとりと汗ばんで、ガタガタガタガタ震え始めた。
(変なのを乗っけちまった。こいつ、おかしいぞ)
と思った。
頭のてっぺんから、冷えた汗が噴き出して、
額から、顔面を伝って首筋から背中へと流れ落ちて行く。
タクシーを停めて、外へ逃げ出そうかとも思うんですが、
周囲は真っ暗で、民家の明かりひとつ見えないし、小雨が降っている。
(こうなったら、人のいる、明るい所まで早く行こう)
とアクセルを踏み込んだ。
小雨に煙る夜の闇を、ヘッドライトが照らしていく。
あとにも先にも全く車がない。
と、女が、布にくるんだ赤ん坊を、グーと前に突き出してきて、
「かわいいでしょう」
とまた言った。
もう自分は恐怖で、今にも意識を無くしそうなぐらいで、
心臓がドックン、ドックン鳴って、体がブルブルと震えている。
それを、どうにか抑えて、必死にこらえながら、
赤ん坊を見ないように、ヘッドライトの照らす、前方に視線を向けたまま、
「—はい」
と、答えた。
と、女は、なおも布にくるんだ赤ん坊を、原田さんの顔の近くへ寄せてきて、
「ねえ、かわいいでしょう」
と、しつこく言った。
どうやら赤ん坊を見て
「かわいい」
と言わないと、おさまらないらしい。
そうでなくたって、もう意識が途切れる寸前で、
心臓は、ドックン、ドックン、ドックン、ドックン、鼓動を速めている。
体中から、血の気が引いて行く。
それでも、どうにか恐怖を押し殺して、平静を装って、
赤ん坊に視線を向けながら、
「ええ、かわいいですね」
と言うと、
女が、うれしそうにニコッと笑って、うつむいていた顔をふっとこっちに向けた。
途端に原田さんが、
「アアアアアアー」
と凄まじい悲鳴を上げた。
なんと、笑った女の顔の、左半分が無い。
女はタクシーの右側から乗って来て、ずっとうつむいていたんで、
原田さんは、女の右側の横顔しか、見ていない訳だ。
あまりのショックに、この母子から、身をかわそうと、思わず体をよじった。
途端、握っていたハンドルを大きく左へ切っちゃった。
それと同時に、意識がプツンと切れた。
気を失っちゃったんですね。
路面は雨でぬれていて、タクシーはスピードを出していましたから、
激しくスリップして、道路を外れて、急な崖を転がり落ちて行くと、
深い闇にのみ込まれていった。
どれほどの時間がたったのか、ふと気がつくと、
自分は、頭も腕も足も包帯だらけで、ベッドに横になっている。
体のあちこちがズキズキ痛む。
頭は薬のせいかまだ、何だかボーッとしている。
シートベルトをしていたので、どうやら命は助かったらしい。
「アイタタタッー。」
ひとり声を上げていると、部屋のドアがあいて、
「具合どうですか」
という声がした。
見ると、それは自分の会社の、渉外を担当する菊池さんという人で、
「明け方、こちらの警察から、うちの会社に電話が入りましてね、
すぐ飛んできたんですよ」
と言ったので、
「どうも済みません」
と原田さんが謝ると、
「いやいや、いいんですよ。
これが私の仕事ですから」
とニコッと笑った。
この人が、事故の一切の処理をしてくれる。
原田さんの身分証明やら、入院の手続やら、保険関係から、なにもかれも、やってくれるわけだ。
ちょうど、自分の父親ぐらいの年齢で穏やかな人なので、
(この人だから、務まるんだなあ)
と思った。
と、菊池さんが、
「実は、警察が気にしていましてねえ。
というのは、あなたのタクシーの料金メーターが、回ったまま途中でとまっているんで、
お客を乗せていたんじゃないだろうかと言うんですよ。
でも、乗せていれば、かなりの怪我をしているでしょうから、その形跡があるんでしょうけど、
全くそういうものもないし、売上金がそのまま残っていますからね、
強盗でもないし、どういうことなのかと言ってるんですがね」
と言ったので、
原田さんが、
「ああ、それですか。
昨日の、夜の10時を少し廻った頃に、銀座を流していて、
南房総までの長距離のお客をひろいましてね。
で、送り届けて、空車で帰る途中、予約の無線が入りましてね、
Mホテルで、赤ん坊を連れた、女の客を乗せているんですよ」
と言うと、菊池さんの顔色が変わった。
「やっぱり、お客さん、乗せてたんですね」
と言うから、
「ええ、それが、なにかおかしな客なんですよ」
と言うと、菊池さんが、
「実は私、警察の方とね、事故の現場へ行きましてね、驚いたんですよ。
私、以前にも、あの場所へ行ってるんです。
もう5年ぐらい前でしょうかね。
その晩も、ちょうど昨日のように、小雨の降っている、そんな晩でしてね。
うちのタクシーが、東京から3人連れの客を乗せて、あなたが行った、そのMホテルへ行ってるんです。
そこに、赤ん坊を連れた女性がいましてね、急ぎの用が東京にあったようで、入れ違いに乗ってきたんですよ。
よほど急いでいたらしくて、タクシーを、相当せかせたんですね。
車の方は、路面が濡れていますからね、
スリップを起こして、道を外れて、崖を転がり落ちていったんですよ。
そのときに、左のドアが開いて、母親と赤ん坊が、外へ放り出されているんですよ。
「その赤ん坊なんですがね、
首からちぎれて、頭が、雨にうたれて転がっていたそうですよ。
母親は、両手で赤ん坊を、抱いていたもんですから、顔面の左半分を削りとられていましてね。
うちの運転手も亡くなりました」
と聞かされて、
思わず全身が凍り付いた。
「で、無線なんですが、
昨夜の10時15分に、あなたからの無線は、配車係が受けているんですけど、
昨日は深夜に、一切予約はなかったそうで、
どこにも、無線はしてないそうですよ」
と言われて、ふっと思った。
そうか、そりゃそうだ。
南房総の客が、東京のタクシー会社に、予約なんか入れるはずがないし、
会社の人間が、自分がどこを走っているか、わかるはずがない。
それに無線はそんな遠くまで届かない。
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