カルチャー

マジカルチャーバナナ Vol.8

マジカルバナナ方式でカルチャーについて縦横無尽に語ってみた。

2022年11月27日

cover design: Ray Masaki
text: Keisuke Kagiwada

〈今回取り上げる話題〉

東京ディズニーランド、実写版『リトル・マーメイド』、『アトランタ』シーズン3とドナルド・グローヴァーの声、『アフロフューチャリズム ブラックカルチャーと未来の想像力』、MigosのTakeoffの死など。

 先日、1万年ぶりくらいに東京ディズニーランドを詣でてきた。

 ディズニーランドと言ったら、ジャン・ボードリヤールが書いた『シミュラークルとシミュレーション』(みんな大好き〈C.E.〉の立ち上げにも影響を与えた哲学書)の中に登場するパンチラインが有名だ。いわく、「ディズニーランドとは、《実在する》国、《実在する》アメリカのすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ」。

 アメリカという国は虚構に塗れている、その事実を隠蔽するためにこそより徹底的に虚構化されたディズニーランドの存在意義があるって話だ。けれども、現在の東京ディズニーランドに限って言えば、キャストもゲストもマスク必須だし、そこかしこに消毒液が置かれているし、現実もろ出しって感じで残念至極。ディズニーランドの虚構性を持ってしても、コロナには太刀打ちできなかったようだ。

 ディズニーと言ったら、2023年初夏に公開する実写版『リトルマーメイド』の予告編が公開され、アメリカを中心に物議を醸している。アニメ版では赤髪の白人だった主人公アリエルを、黒人のハリー・ベイリーが演じているからだ。同じことはキャスト決定時にも起こっていたのだが、「オリジナルに忠実にせよ」「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスだ」という反対派と、「これまでのプリンセスは白人ばかりだったんだからいいじゃないか」「そもそもリトルマーメイドは人間じゃないんだからどんな人種でもいいだろ」という賛成派が、意見を戦わせている。ディズニーではないが、ドラマ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』でエルフを有色人種が演じたことに対しても同様の批判が起きている。これまでの実写版『ロード・オブ・ザ・リング』関連作では白人が演じていたからだ。

 極東に住む30代男性の映画好きとしては、面白ければなんでもいいというのが正直なところだ。ただ、『リトル・マーメイド』の予告編を観た黒人少女が、「私みたいだね」と感激しているTikTok動画なんかを目にすると、反対派の言う「行き過ぎたポリティカル・コレクトネス」で何が悪いとは思う。

 それよりも、リトルマーメイドにしろ、エルフにしろ、それから実写版『ピノキオ』の魔法使いを含めてもいいと思うけど、みんな非人間だってことの方が気にかかる。白人キャラを黒人キャラに差し替えるのは大いに結構だが、それが非人間ばかりというのでは、むしろポリティカル・コレクトネスが足りないんじゃね?

 という次第なので、多様性の時代に真にふさわしい作品と言ったら、黒人差別をめぐる現状をすさまじく複雑なレベルで活写した『アトランタ』シーズン3(ディズニープラスで配信中)を個人的には推したい。ドナルド・グローヴァー(またの名をチャイルディッシュ・ガンビーノ)が製作総指揮、監督、脚本、主演を務め、グローヴァー演じるアーンを中心に、彼がマネージャーを務めるラッパーのペーパーボーイやその取り巻きのダリアス、それからアーンの前妻ヴァンの日常を描いたTVシリーズだ。オフビートなコメディではあるが、盛り込まれる社会問題への皮肉の切れ味が尖すぎて、観たら最後、血だるま必至の危険な作品である。

 シーズン3でとりわけ度肝を抜かれたのは、3話の「老人と木」と9話の「リッチ・ウィガ、プア・ウィガ」だ。まず後者から。驚くべきことにこの話は、主要キャラがまったく登場しないし、本筋ともまったく関係がない(でもって、このシーズンにはその手の話が他にもいくつかある)。主人公は高校生のアロンで、黒人の父と白人の母を持つらしい彼の肌はまぁまぁ白く、白人の仲間とつるみ、白人として暮らしてきたようだ。

 肌の白い黒人が、そのことを隠して白人として生活することを、“パッシング”と言う。それをテーマにしたネラ・ラーセンの小説「パッシング」は映画化され、『PASSING -白い黒人-』という邦題でNetflixで配信されている(小説「パッシング」はNetflixでの配信を受けてなのか、今年出た『パッシング/流砂にのまれて』という1冊に新訳が収録された)。「リッチ・ウィガ、プア・ウィガ」も、パッシングをめぐる物語と言えるだろう。

 アロンは高校卒業後に大学進学を望んでいるが、親の支援は得られそうにない。そんなある日、朝礼に突如として登場した黒人資産家のOBが、「君たちの大学の学費を肩代わりする。ただし、黒人生徒に限る」と言うではないか。背に腹は代えられないアロンは、友達に内緒でこっそり面接会場に足を運んだものの、会場で行われていたのは「チキンの焼き時間は?」とか「ボビー&ウィットニーか? ウィル&ジェイダか?」とか、どれだけ黒人らしいかを確認するテストだったもんだからさぁ大変。白人として生きてきたアロンにはまったく刃が立たず……というのが前半部のあらましだ。

 この話を念頭に起きつつ、3話「老人と木」に進もう。アーン、ペーパーボーイ、ダリアス、ヴァンの4人が白人の富豪宅のパーティに招かれるという話なのだが、まず注目したいのは、そこへ向かう道すがらアーンが「お前はいつも白人みてぇな喋り方だな」とイジられる点。実はこれ、現実のドナルド・グローヴァーに対するメタレベルのイジりでもあるのだ。

 って言うのも、クローヴァーは出世作であるドラマ『コミ・カレ!!』(駆け出し時代のジリアン・ジェイコブス、アリソン・ブリーなども出演している重要作)の頃から、「白人みたいな喋り方をする黒人」として知られる俳優だからだ。また、90年代ヒップホップを愛する黒人青年を描いた『Dope/ドープ!!』(ファレルが製作総指揮を務め、A$APロッキーも出演している)において、青年は「スケートボード、マンガ、ドナルド・グローヴァー」が好きな「白人趣味のオタク」であるから、黒人の同級生にいじめられるのだと紹介される。つまり、ドナルド・グローヴァーとは、白人みたいな喋り方をする、白人にこそ好かれる黒人であり、文化的な「パッシング」の実践者なのか。だとしたら、「リッチ・ウィガ、プア・ウィガ」のアロンはグローヴァー自身の戯画なのか。

 少し脱線するが、ダリアス演じるラキース・スタンフィールドが主演した『ホワイト・ボイス』という映画がある。ラッパーのブーツ・ライリーの監督作で、資本主義社会下における企業活動を皮肉ったドス黒いSFコメディだ。本作においてラキースは、電話営業マンとして成績アップすべくまず白人らしい喋り方を身につけるんだが、この役にはどうしてもグローヴァーが重なってしまう。そう言えば、スパイク・リー監督の『ブラック・クランズマン』にも、黒人警官が白人の喋り方でKKKに電話をかけて入会するというくだりがあった。いずれにしても、肌の色と同じくらい喋り方も人種的アイデンティティを規定するってことだろう。

 それで言うと興味深いのが、今年本邦初公開された1968年製作のカルト映画『パトニー・スウォープ』だ。黒人がとある広告会社を乗っ取る姿を過剰なまでにバカバカしく描くという意味で、『ホワイト・ボイス』のバイブスと近しいのだが、主演の黒人俳優アーノルド・ジョンソンの演技を気に食わなかった白人監督(ロバート・ダウニーJrの親父だ!)が、彼の声をすべて吹き替えているらしい。つまり、ミンストレル・ショー(19世紀に流行した、白人が顔を黒く塗って笑いをとる芸。現在は人種差別の観点からタブーとされている)の声ヴァージョンとでもいうべきけしからん事態が起きているわけだが、Netflixで配信されたドキュメンタリー『ブラック・イナフ?!? アメリカ黒人映画史』を観ると、黒人俳優アントニオ・ファーガスが同作を絶賛してたりする。この手の問題は一筋縄ではいかない。

 ところで、 先ごろ邦訳が刊行されたイターシャ・L・をマックの『アフロフューチャリズム ブラックカルチャーと未来の想像力』では、「アフロシュルレアリスム」という表現形態が紹介されている。その定義は「道徳的な物語であり、魔法と共鳴する夢の感情やイメージ、さまざまな得体の知れぬ恐怖、神秘、暗黙の啓示」であり「今であれ、いつであれ、現実の生活の物語でもある。超現実性と詩で構成されており、本質的なテーマの同時代性は明らか」なものとのこと。『アトランタ』の2話、『ホワイト・ボイス』『パトニー・スウォープ』は、現実的な物語の中に、突如としてSF的な奇想が紛れ込ませているという意味で、「アフロシュルレアリスム」的な作品と言えるかも知れない。さらに言えば、いずれも黒人が資本主義社会をいかにサバイブするかをテーマにしているという点でも通じている。

 というあたりで、3話「老人と木」に戻ろう。パーティ会場に到着したダリアスが、あるアジア人女性に声をかけると、女性は苦笑いしながらこう告げる。「ごめん、婚約者がいるから」。しかし、彼はただ酒を取ってもらいたかっただけだ。それを伝えると、女性は急いで「ごめんなさい。よく黒人にナンパされるから。黒人はアジア人が好きでしょ?」と謝罪。最終的には2人とも笑い合って誰も傷つくことなく丸く収まった……かのように見えたが、これを見ていた白人男性が「とんでもない人種差別主義者だったな」と絡んできたのを皮切りに、その言葉がどんどん独り歩きし、大勢の白人たちがダリウスを囲んで慰めるという事態に発展。それどころか、例のアジア人女性を見つけると、「差別主義者は許さない」と文字通り袋叩きする始末である。

 会場にいた1人の黒人がダリウスに「白人の罪の意識がああさせるんだ」と声を掛けるが、要するに、「最近の白人は当事者でもないくせに、人種差別を過剰に意識してバカみたいだ」とグローヴァーは言いたいのだろうか。しかし、前述の通りグローヴァーは白人のような喋り方をする白人にこそ好かれる俳優で、黒人にはあまり好かれてないらしい。ってことは、『アトランタ』の視聴者も白人が中心なのかもしれないし、その中には同作の描く人種差別問題に関心を抱いている層も多いかもしれない。そんな善良な白人を皮肉ってしまうんだから、なかなかどうして意地悪なドラマである。しかし、そこまで複雑な手続きを経ないと、この一筋縄ではないかない多様性の時代を取り巻く差別の本質は描けないということなのかも。本国では既にシーズン4が公開され、『アトランタ』はこれにて完結となるらしいが、シーズン3でこれなんだから、期待せずにはいられない。

 さて、アトランタと言ったら、同地をフッドとするラップトリオにして、トラップを世に広めた立役者でもあるミーゴスに触れずには終われない。去る2022年11月1日、メンバーの1人であるTakeoffが射殺されてしまったからだ。メンバーのQuavoとヒューストンのボーリング場で遊んでいる際に、事件は起きたという。最近、Takeoffとクエイヴォの2人の活動が目立ち、もう1人のメンバーであるOffsetとの仲違いが噂されていたが、これでもう本当に3人組としてのミーゴスは見られなくなってしまった。

 ところで、ミーゴスの3人は『アトランタ』のシーズン1に本人役で出演し、グローヴァーは彼らを「この世代のビートルズ」と評している。ミーゴスと言ったら、多くのギャングスタラッパーと同じく、俺たちはいかにカネを稼いできて、いかにカネを持っているか、つまり、俺たちはめちゃくちゃ労働しているんだぜとを歌い続けた。一方のビートルズと言えば、「I’m Only Sleeping」で”Stay in bed Float up stream(ベッドにいて、上流に浮かぶ)”と歌っており、『ポスト資本主義の欲望』のマーク・フィッシャーによるなら、これは反労働の歌詞だ。

 だから、両者の資本主義への態度は正反対なわけだが、あえて言うなら、ビートルズが白人の声(喋り方)で、白人なりの資本主義のサバイブ法を歌ったように、ミーゴスも黒人の声(喋り方)で、黒人なりのそれを歌っているという意味で、グローヴァーは彼らを「この世代のビートルズ」と評したのかもしれない……と思ったり思わなかったりしつつ、今はTakeoffの冥福を祈りながら、彼の残した楽曲を聴くことにする。

プロフィール

鍵和田啓介

かぎわだ・けいすけ|1988年、東京都生まれ。ライター。大学在学中、映画批評家の樋口泰人氏にリクルートされて執筆活動を開始。『POPEYE』『BRUTUS』他、主にポップカルチャーについて執筆。