CULTURE

映画監督のS・クレイグ・ザラーにインタビュー。〈後編〉

2022.02.10(Thu)

text: Keisuke Kagiwaa
translation: Catherine Lealand
photo: Collection Christophel/Aflo

前編を読む

S・クレイグ・ザラーという男を知っているだろうか。2015年に『トマホーク ガンマンvs食人族』でデビューし、その後『デンジャラス・プリズン -牢獄の処刑人-』『ブルータル・ジャスティス』を手がけた気鋭といってよかろう映画監督だ。まずは3作の予告編を観てほしい。

いかがだっただろうか。もし、「ありがちなバイオレンス映画か……」と思ったなら早合点。たしかに、ときに目を覆いたくような残虐シーンもあるにはある。しかし、その描き方が異様に静謐なのだ。「なんだこの人は!」と調べてみると、映画以外にも、小説やグラフィック・ノベル、さらには音楽も発表している才人らしい。そんなザラー監督に電話インタビューを決行したので、前後編に分けてお届けする。後編では監督した映画作品について。

ーーあなたはこれまでジャンル的には西部劇(『トマホーク〜』)、監獄アクション(『デンジャラス〜』)、刑事アクション(『ブルータル〜』)を作られています。この手のジャンルは100分程度が定番ですが、あなたの場合はどれも上映時間が130分を超えていますよね。上映時間は脚本の段階で決めているんですか?

自然とそういう時間に落ち着くんだよ。それは私の脚本の書き方と関係しているかもしれない。私の書き方はシンプルなんだ。それは、毎日自分を驚かせるってこと。だから、一度アウトラインを作っても、脚本を書いている30日間で毎日変わる。というのも、どんなに苦労してひとつのアウトラインを作ったとしても、パソコンを立ち上げれるとさらにいいアイデアが思いついてしまうから。

例えば、『ブルータル〜』では、中盤でメル・ギブソンが演じる刑事と、トリー・キトルズ演じる黒人の男が、手錠に繋がれたままお互いをノックアウトして、タイトルが示すとおり、コンクリートの上を引きずり回される予定だったんだ(『ブルータル〜』の原題は“Dragged Across Concrete”。「コンクリートの上を引きずり回される」の意味)。しかし、完成した映画にそんなシーンは見当たらない。それは私が新しいアイデアを思いついてしまったからだ。たしかに、キャラクターの目標や達成したい事柄を予め決めておくと書きやすい。しかし、私の場合、キャラクターになりきって書いているから、彼らがそれぞれに見合った形で、私のまったく予想もしてなかった行動をするようになる。そうすると物語も別の方向へ進んでいく。ここに驚きがあるんだ。

『トマホーク ガンマンvs食人族』もそうだ。完成された作品で最後に死ぬ奴の1人は、当初は生き残るはずだったし、生き残っている奴の1人は死ぬはずだった。この結果は自分が決めた道というより、私が新しい道を歩むことに心を開いたために展開された状況だと言えるだろう。

——あらかじめ終わりを予想して脚本を書くことがないから、時間も長くなっていくと。

少なくとも『トマホーク〜』と『デンジャラス〜』に関しては何のリミットもセットしてなかった。結果、いずれも128ページの脚本になり、時間は2時間13分になったんだ。『ブルータル〜』はさらに長い脚本だったが、ライオンズゲートとの契約では2時間40分以下に収めなければならなかった。だから、あの映画は2時間39分と数秒なんだ。そのせいで、この作品は完成するまでに何度か手直しをしなければならなくなった。最初のヴァージョンは5、6分長すぎて、ただひたすらいろいろなものを刈り込んでいったよ。とは言え、まるごと削除したシーンはひとつだけだ。そのシーンは満足のいく水準に達してなかったので削除したんだ。

——時間の長さに関しては、普通なら少ししか描かないシーンを丹念に描いていることとも関係している気がします。例えば、『ブルータル〜』には、刑事と強盗の物語が並行的に描かれながら、唐突にとある銀行員の女性のドラマが異様な豊かさを持って描かれます。その一方、強盗を仕切っている者たちは覆面をかぶったままバックボーンは明かされません。このバランス感覚が面白いと思うのですが、丹念に描くシーンとそうではないシーンはどのように決めているのですか?

それはいい質問だ。私のお気に入りのシーンを褒めてくれてありがとう。いつも考えているのは、どうしたら観客がキャラクターとより深く関われるかなんだ。しかし、それは必ずしもすべてをきっちり説明することではない。ある部分に関しては執拗に説明するが、あるシーンに関してはいくつかの疑問を残す必要がある。

『ブルータル〜』の銀行員の女性のシークエンスは、映画が始まって90分のところに位置している。そこでは強盗に遭遇する前、彼女が生後間もない子供が心配でなかなか仕事に行けないという物語が急に挿入されるわけだが、それまで物語の中心を担っていた警官でも強盗でもない人物の人生を垣間見ることができるという点で、明らかにこの映画のポイントになっているんだ。普通であればその他大勢の被害者の人生が、詳しく明かされることで、続く強盗シーンが恐ろしくなっているから。音楽的に説明するなら、キーチェンジや転調のようなシーンだと言ってもいい。実際、プログレッシブ・ロックの曲では、曲の18分後に新しいリフが入り、それがメインリフになったりする。それと同じだ。さまざまなメディアで積んだ経験は、こんなふうに別のメディアで作品を作るときにも役立っている。

——普通なら短く描くであろう最たる例と思われるのが、『デンジャラス〜』の冒頭であることにキレたヴィンス・ヴォーンが車を破壊するシーンです。その長時間にわたる徹底した破壊っぷりには驚きました。

あの車のシークエンスは、とても大変だったんだ。本物の車って窓を殴っても、なかなか割れないからね。ボンネットがくしゃくしゃになって、アルミホイルみたいになってしまう。本物の車は抵抗するし、衝突しても大丈夫なようにできているんだから当然だ。しかし、だからといって、プロレスの小道具のように壊れやすいものを使うのは絶対に嫌だった。勘違いしないでほしいが、私はプロレスが好きで、とりわけ日本のプロレスは世界で最も好きだ。しかし、一般的なハリウッド映画のように、あのシーンで多くのカットを割ったり、プロレスの小道具的な車を使えば、説得力がなくなってしまう。それをしなかったからあのシーンは説得力があるんだ。実際、飛び散った血の一部は、ヴィンス自身のものだよ。ちなみに、『デンジャラス・プリズン』の映画の長回しの戦闘シーンの多くは、ジャッキー・チェンやフレッド・アステア、バスター・キートンを参照している。そこにはキャラクターたちのアクションをフィックスのワイドショットで見せるという美学があるんだ。

ーーなるほど。あのいつ終わるとも知れない感じ、本当に大好きです。では、さらっとしか描かないシーンについてはどうですか?

これはH・P・ラヴクラフトに関係している。私は13歳の頃に出会い、今日に至るまで彼の大ファンなんだ。今年のハロウィーンは、彼の作品を読み、彼の墓を訪れ、そこで草の葉を採取したほどだ(笑)。それはともかく、彼の作品が怖くて余韻に浸れる理由のひとつは、普通の物語であればあってしかるべき答えをあまり出さないからだと思う。私の作品を観た人からよく言われたよ。『ブルータル〜』の強盗の正体は誰なのか? 『トマホーク〜』の食人族はどういう歴史をたどってきたのか? と。人々はすべての答えを欲しているらしい。しかし、説明しすぎないことによって醸し出せる迫力というものがあると思っている。実際、食人族の歴史に踏み込めば、人々がより彼らのことを理解できるかもしれないが、おどろおどろしさもなくなってしまうだろう。そして、得体が知れないからこそ、そのキャラクターが観客の想像力の中で長く生き続ける。その物語についてもう少し考えてくれるようになるわけだ。

——もうひとつあなたの映画の特徴として、目を覆いたくなるほどグロい暴力シーンがあります。例えば、『トマホーク〜』の食人族が人体を真っ二つに引き裂くシーンとか。しかし、それはこれみよがしに映すわけではなく、ロングショットで静かに描かれます。なぜこうした手法を好むのでしょうか。やっぱり北野武監督の影響ですか?

北野の影響ではないと思う。たしかに、私は北野のファンだが、彼の描く暴力はもう少し派手だし血しぶきが飛ぶからね。その意味ではタランティーノのそれに近い気がする。

しかし、私の撮影スタイルに関しては、指摘してくれたように控えめだ。本作に出演していたカート・ラッセルにも言われたよ。「君の撮影スタイルは控えめだが、真っ二つのシーンはもっとグロテスクに撮るんだろ?」って。「いや、まったく同じように撮影する」と私は答えた。というのも、その方がよりリアルに見えるから。そして、効果音もよりリアルにして、手に汗握るような音楽も入れず、できるだけ少ないカット数でシークエンスを見せた。『デンジャラス〜』には、ヴィンスが刑務官の腕を折るシーンがあるが、普通のゴア映画なら腕の骨を折り、その骨が皮膚を貫通するアップを撮るだろう。だけど、私はこういうシーンこそ人物全体が見えている方が効果的だと感じる。その意味で、私の映画に本来的な意味でのゴア描写は皆無に等しい。もっともゴア描写に接近したのは、『トマホーク〜』で主人公が死んだ食人族の喉の切り裂くシーンだろう。しかし、あれは主人公が食人族のすぐ近くにいるから、アップで撮ったに過ぎない。

ーー登場人物たちがただ話をしている部屋のシーンなんかも、カメラを引いてワイドなショットに収めることが多いですよね。これにも何か理由があるんですか?

これは逆に北野武や、大好きなヴィットリオ・デ・シーカの影響と言える。結局のところ、映画を作るということは、ドラマを見せるということ、要するに観客をある環境に連れて行くことなんだ。そのためにこそ、空間をより感じることができるワイドショットを使っている。例えば、同じ部屋のシーンでも登場人物のクローズアップで撮ったとしたら、観客はその顔や目に注目するだろう。いっぽう、引きのワイドショットで撮れば、誰かが左から右へ移動する姿も自由に見ることができる。そうすると、観客は登場人物の表情以外のいろんなことに気づくことができ、単純に物語を見せるのはまた別の視聴を促すことができるというわけだ。さっき北野映画を例に取り少し長めに撮影して余韻を残すという話(※前編を参照)をしたが、ワイドショットで撮った部屋も同じ効果を狙っているんだ。

そしてそれは、私の映画にほとんどスコアがないことと関係がある。『トマホーク〜』は数分、『デンジャラス〜』は2,3分だけだ。そして『ブルータル〜』に関しては1秒たりともスコアがない。これはスコアによってドラマの印象を決定せず、観客が自分なりの感情を持てるようにするためのアイデアなんだ。だからこそ、私の映画は観客からさまざまな感想を持たれているんだと思う。例えば『ブルータル・ジャスティス』なら、ある意味で人種差別的な主人公たちを憎む観客がいたかと思えば、彼らに共感を寄せる観客もいた。こうした両極端な感想を惹起するのは、ワイドショットで観客が環境を自由に観られるようにしておいたからだろう。ただ、こうしたワイドショットが有効なのは映画の始めのほうに限るとは思う。ドラマが激しくなっていくにつれ、ワイドショットのままではいられなる。もう少し近くに寄ったほうが、観客にドラマに入り込んでもらえるから。

ーーこれまでのあなたの監督作ではすべて白人と非白人との対立が描かれていますね。さらに言えば、『デンジャラス・プリズン』の主人公である刑事コンビは、いまおっしゃられたように人種差別的です。そこにあなた自身の政治性を読み取ることができると言う人もいますが、実際のところはどうなんでしょう?

たしかにそうだ。多くのジャーナリストたちが政治的なレンズを通して、この映画を観ようとした。『ブルータル〜』は差別的な右翼的映画だとかなんとか。それは彼らの権利であるから私は構わない。しかし、確実に言えるのは、そこに私の政治的な主張を込めているわけではないし、そういうことには興味もないということだ。そもそも、あの映画のラストの展開を目にしてもなお、「彼らは善人だ」「正義は勝つ」といった牧歌的なメッセージを読み取るのは難しいだろう。もしその結論に達するなら、その1点のみを強調し、その他の多くのことを無視しなければならない。要するに、観たいものしか観てないわけで、確証バイアスというやつだ。

じゃあ、なぜそういう人物たちを好んで登場させるかと言うと、私にとっては欠点があるキャラクターほど面白く、かつ書きたいと思えるから。それ以上でも以下でもないんだよ。

ーー僕自身、あなたの映画は差別的な右翼映画だと言えるほど単純ではないと思っていました。実際、『ブルータル〜』には、主人公の警官コンビがダイナーで食事中、とある曲が流れてきて「最近の歌は男が歌っているのか女が歌っているかわからん」と、それこそ差別的な発言をするシーンがあります。しかし、クレジットを見るとその曲の歌い手はザラー監督自身なんですよね。もしあなたが有害な白人男性だったとしたら、自身をこのような差別的発言の被害者に位置づけることはなかったと思います。

まぁ、それとこれとは話が別かもしれないが。あのシーンで自分の歌った曲を使った理由は単純だよ。この映画では音楽をオージェイズやブッチ・タバレスがやっているんだが、とりわけオージェイズは私にとってレジェンドなんだ。尊敬する俳優と仕事をするのは素晴らしいことだが、それとは次元が違うで大ファンなんだよ。だから、ああいうシーンで彼らの音楽を使うのは違うと思って、自分の歌声を使ったというわけだ。まぁ、私のピッチは低い音域よりもファルセット音域の方が正確だからね。最終的には男性の声には聞こえないように調整したけど。

ーーなるほど。最後にひとつだけ聞かせてください。私たちはあなたの次の映画をいつ観ることができるのでしょうか?

残念なことに明確なことは何も言えないんだ。今、4つのプロジェクトが進行中だが、コロナ禍のせいでどうなるかわからない。グラフィック・ノベルや小説を書きつつ、準備を進めているところだ。ちなみに、日本語でも『ノース・ガンソン・ストリートの虐殺』という小説が1冊だけ翻訳されているから、まずはそれを読んで待っていてほしい。あと、他の作品も自信があるから、もし知り合いに出版社がいたら遠慮なく伝えてくれ。どんな出版社でもいいから、私の作品に興味があればぜひ連絡をくれ、と。

プロフィール

S・クレイグ・ザラー

1973年、アメリカ・フロリダ州生まれ。2015年に『トマホーク ガンマンvs食人族』で映画監督デビュー。映画監督以外にも、小説、グラフィック・ノベル、音楽などの分野で作品を発表している。小説『ノース・ガンソン・ストリートの虐殺』は日本語訳あり。また、脚本のみを手がけた作品に『ザ・インシデント』や『パペット・マスター』がある。
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