トリップ

霧ヶ峰の森に佇む山荘、「クヌルプ ヒュッテ」に一泊。

2021年10月21日

コーヒーと旅の話。

photo: Kazumasa Harada
illustration: Ryuto Miyake
edit: Kyosuke Nitta
2021年11月 895号初出

長野県諏訪市霧ヶ峰
クヌルプ ヒュッテ
クヌルプ ヒュッテ
長野県諏訪市霧ヶ峰のしっとりした森の中にひっそり佇む1957年創業の山荘。ミズナラの木々が茂る細い道を抜けた先に古い童話の挿絵にありそうなノスタルジックな木造2階建てが現れる。ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』が由来。一度泊まると山荘の概念が変わる。

旅したいと言うものの
実際どんな旅をしたいのか?

 本屋に古着屋、美術館やクラフトの店、喫茶店に酒場。どちらかというと朝から晩まで予定をぎっちり詰め込みたい派だけど、このご時世そうはいかないし、マインド的にも違う。静かでノスタルジックで、派手さはないけど沁み入るものがある旅とでもいうか。居心地のいい宿で時間に縛られることなく好きな本でも読み耽りながら、ときどき近場の自然を軽く散歩するぐらいがいい。そんなことを考えながら少し肌寒い夜に深田久弥の『日本百名山』をパラパラめくったら、長野県にある霧ヶ峰のページでふと手が止まった。「登る山というより遊ぶ山」「歌いながら気ままに歩き、気持ちのいい場所があれば寝転んで雲を眺め、わざと脇道に入って迷ったりもする」とはまさに理想郷。調べると、霧ヶ峰にはクラシックな山荘がいくつか点在していて、辻まことの画文集『山で一泊』にあるような、「山小屋はちいさくてしっかりしていて、そしてかなり不便にできているほうがいい。清潔で、よく整理された部屋で、薪をもやしランプをともす小屋」みたいな風情あるヒュッテがあればぜひとも泊まってみたい、なんて妄想を膨らませていたら、何かに引き寄せられるかのように『山の家 クヌルプ』という一冊の本に出合った。

ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』(新潮文庫)と『山の家 クヌルプ』(エクリ)
ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』(新潮文庫)と『山の家 クヌルプ』(エクリ)。なぜ寿幸さんがこの主人公クヌルプのアウトサイダーな生き方に惹かれたかが徐々にわかってくる。

 1957年にオープンした山荘「クヌルプ ヒュッテ」に30年も通い続ける編集者、須山実さんが、オーナーの松浦寿幸さんと小夜子さん夫婦、そしてこの小屋を愛する12人へのインタビューを3年かけてまとめたもので、実際読んでみると、50年も通っているバイオリン奏者がいたり、親から子へ、そして孫までと3世代で定宿にしている熱烈なファンもいたりと愛されっぷりがとにかくスゴい。特に興味深かったのが「居候たちの季」という章。今の感覚じゃちょっと理解できないけど、居候とはメシ・宿代がタダ、その代わりにあらゆる山小屋仕事を無条件で手伝うというシステムのこと。ドイツ語で渡り鳥を意味するワンダーフォーゲルという野外活動ムーブメントが学生闘争真っ只中の若者を中心に花開いた’60 年代後半~’70 年代には宿泊者の数以上に居候が膨れ上がり、客室は毎日溢れんばかりにすし詰め状態だったという。寿幸さんの信念は、来る者拒まず。ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』が由来ということもあって独文学好きが全国から押し寄せ、夜深くまでヘッセ談議が続いたとはなんとも面白い時代だ。

 本が刊行された翌年の2018年に寿幸さんは92歳で亡くなられ、息子の健之さんが跡を継いだと知ったのは後のこと。この歴史的文化遺産としか表せない山荘はどんなところなのか。実際目で見て確かめたくて、東京から車で約3時間。霧ヶ峰の森へと向かった。

霧ヶ峰の車山エリア
八ヶ岳連峰から南・中央・北アルプス、富士山など名峰を大パノラマで一望できる車山エリア。傾斜がなだらかな丘で、特に好きだったのは蝶々深山から車山へ向かうこの道。すっと抜ける清々しい風が心地よく顔を打つ。
霧ヶ峰
八島ヶ原湿原
山荘から徒歩10分ほどのところにある八島ヶ原湿原。平坦な木道だからスニーカーで大丈夫。秋が深まると一面が茜色に染まるそうだ。

64年分の歴史が詰まった
ここでしか読めない物語。

 のんびり本でも読もうと宣言しつつ、基本的には旅先であちこち巡ってワクワクしたい側の人間にとって、「クヌルプ ヒュッテ」はその両極の願望を満たしてくれる稀有な山荘であると着いてすぐに確信した。60年使い込まれることで水飴のような光沢を纏った食堂のラッシチェア。頻繁に手を置く部分だけ塗装が剥げ落ちた松本民芸家具の長テーブル。寿幸さんが削った重厚な木臼の椅子も、居候を経て木工作家として活躍する原渉さんが手彫りを施した棚も、どれも無意識にため息がこぼれるほど風合いが美しく経年変化を超越したオーラを放っている。

「クヌルプ ヒュッテ」1階の食堂
ここは京都の河井寛次郎記念館かと錯覚するぐらい重厚感たっぷりな1階の食堂。アジが増した松本民芸家具の折り畳み長テーブルとラッシ編みのチェアが並び、布シェードを纏ったライトが優しく灯る。初めてなのに、ただいまと言いたくなるぐらい懐かしく、埃っぽさとは違う重層的な歴史の薫りにただただ癒やされる。
手彫りを施した本棚の扉
松本市を拠点にする木工作家の原渉さんが居候時代に手彫りを施した本棚の扉。彼の手仕事が随所にちりばめられている。

 壁のあちこちに飾られているイラストや落ち葉のコラージュ作品は宿泊客や居候が残したものだそうで、素人作品とは思えないぐらいすべて味わい深い。霧ヶ峰ハイキングは深田久弥の言うとおり文句なしに最高。夕食のデミグラスソースのハンバーグも絶妙のひと言。食後のコーヒーの深煎り具合もパーフェクト。Wi-Fiはないし、携帯の電波も入りにくいけど、民藝資料館とアートギャラリーと喫茶店と洋食のレストランと雄大な丘を全部巡った後のような充実感を1か所で味わえるとはこのうえない。

デミグラスソースのハンバーグ、ナス味噌和え、焼き大根に冷奴、らっきょう、味噌汁はお揚げ&白菜
デミグラスソースのハンバーグが夕食の定番。ナス味噌和え、焼き大根に冷奴、らっきょうなどの小鉢が並び、味噌汁はお揚げ&白菜という完璧な布陣。通常営業のときはビールや長野の「五一わいん」など酒の提供もしているが、次回の楽しみにとっておこうとこの日は控えた。

 しかも辻まことの文にあったヒュッテそっくりで、山小屋といえば多少汚れているのが当然なのに、どこを見渡しても塵と埃がなく蜘蛛の巣も見当たらない。磨き上げられた床や梁は黒光りしていて、どれほど細部にまで愛情が注がれてきたかが誰の目にもわかる。そして薪ストーブでぬくぬくと暖まったリビングで古いランプの火がゆらゆらと揺らぐ中、寝る前にどっぷり浸る読書時間たるや至福の極み。

「クヌルプ ヒュッテ」内観
いったいどれぐらいこの長椅子で過ごしたのだろうか。時間の感覚を忘れてしまうぐらい落ち着く場所。クッションは無作為に選ばれたように見えて統一感がある。壁に掛かった鉄製オブジェも渋い。
「クヌルプ ヒュッテ」畳部屋
訪れた日は貸し切りだったため、10畳ほどある広い部屋に案内してもらった。畳を踏むと柔らかく沈み、壁や天井は長年きれいに磨かれることで美しい木目を見せていた。

 訪れた日は貸し切りだったということもあり、長椅子で足を伸ばしながら、まずはサイドテーブルに置いてあった牧野富太郎の古い植物図鑑からスタート。それから本棚にぎっちりときれいに並んだ64年分、64冊にも及ぶ宿帳をなんとなしに開いたら、あまりにもドラマが壮大すぎて止まらなくなった。「32年ぶりに泊まり、子供の頃に書いたメッセージを見つけました」というタイムカプセルみたいな文。夏の2か月居候した18歳青年による不器用かつ熱い感謝の手紙。ここでしか読めないストーリーの数々。それを物語が生まれた現場で読むとは実に感慨深い。布団に入ったのが22時過ぎ。翌朝も読みたい欲が抑えられず、キーンと冷えた井戸の水で顔を洗ってからも、美味しい風景を絵に描いたような朝食をいただいてからも時間を忘れて読み続け、チェックアウトまであと少しというところでようやく宿帳を閉じ、最後こう残してヒュッテを後にした。

「居心地が良すぎて帰りたくないです。居候したいって気持ちが、ちょうど今わかりました。また来ます、必ず」

『太養パン』謹製のパン
朝食は長野の恵み100%。同じ諏訪市で100年以上の歴史を誇る『太養パン』謹製のパンがふっくらエアリーで朝から幸せ。夕食のときも思ったが、このテーブルで食べると味わいの沁み具合が全然違う。
ミズナラの森
窓の外は幻想的なミズナラの森。風が吹くとサササッと葉擦れ音がエコーする。太陽の光が差し込むと、木漏れ日がうっとりするぐらいきれい。

インフォメーション

KNULP Hütte / クヌルプ ヒュッテ

長野県霧ヶ峰

東京から車で約3時間。電車だと長野県の上諏訪駅からレンタカーで約30分。バスは現在台数制限をしているため随時チェックを。1泊2食付き7,500円※2人以上での宿泊は7,200円 チェックイン・アウトの時間は応相談。
◯長野県諏訪市四賀霧ケ峰7718-22 ☎0266·58·5624