ファッション
【#4】桐生とスカジャンと私
2021年10月2日
photo & text: Hiromasa Matsudaira
なぜ、スカジャンが桐生で作られていたのか? それは、産地としての機能が備わっていたから。もともと奈良時代から続く繊維産地だったこと、大正時代に横振りミシンが開発された発祥の地で職人が多かったこと、大東亜戦争(年配の方はこう呼ぶ)時に空襲被害をほとんど受けなかったことが挙げられる。くわえて、戦前のピーク時は国家予算の1割を担うほどの繊維産地で、全国から桐生を目指したヨソ者が多く、新しいもの好きが多かった点が挙げられる。
これらを体現する人物がいる。桐生ジャンパー研究所はこの方なくして存在しなかった。桐生で唯一(ということは世界で唯一)、戦後まもない頃からスカジャンを生産し続ける縫製工場がある。タイサクさんは二代目で、8才の頃から家業を手伝った。創業前にも織物や横振り刺繍など、大変な時代になんでも挑戦した。まだスカジャンという名前で呼ばれる前からジャンパー一筋で生産してきた。最盛期には、親族や分業された100軒近くの外注・内職さんたちが文字通りフル稼働だった。
「子どもの頃、近所の機屋の倉庫にあった絹の落下傘で遊んだんさ。」
「ある寺では、住職が近所の女性を集めてスカジャンを縫製してたんさ。」
「近隣のある町の町長さんも外注としてスカジャンを縫ってたんさ。」
「スカジャンの中綿を作るクズ綿工場は、何度も火事になったんさ。」
「小学生の頃、自転車にリヤカーつけて裁断物の配達を手伝ってたんさ。」
タイサクさんは、桐生特有の言い回しで今日もたくさんのエピソードを聞かせてくれる。
そんなスカジャン生産の歴史や技術は、ほとんど資料として残っていない。桐生はあくまでも生産するところであって、販売あるいは流行を生み出すところではなかった。朝鮮戦争が休戦となり、アメリカ兵が減少していくと、お土産としてのスカジャンブームが終焉を迎え、他の仕事に目が向くようになる。新しいもの好きの真骨頂である。戦前の成功体験を受け継いだままの下請け体質だったことで、スカジャン生産の歴史は忘れ去られてきた。
多くのアパレルメーカーは、自ら作るわけではない。アイデアを考える人、関係者をつなぐ人、パーツを作る人、組み立てる人…。ものづくりには様々な職種の人手が必要だ。それでも、あえて言おう。「作る人」はもっと評価されていい。
私たちは、「スカジャン生産といえば桐生」と世界中の人々に知ってもらうことが目標だ。スカジャン生産の歴史と技術を次世代に継承するために、思いつくあらゆる方法で残していきたい。これは使命である。私たち自身の名誉のためではなく、名もなき先人たちへのリスペクトが私たちを突き動かすのだ。今度は私たち世代の番だ。その昔、確かに桐生でスカジャンを作っていた人々がいた。彼ら彼女らの息づかいが聞こえる。
プロフィール
松平博政
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