TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#2】パリに住む

執筆:増崎佳奈(buikオーナー)

2026年10月16日

ワーキングホリデービザを取得してパリに住んだのは、2012年の9月から2013年9月までのちょうど1年間。東京で4年余り働いたカフェが閉店することになり、次に働く先を決めなければならなかったのだが、また東京の飲食店で働くイメージがどうしても持てなかった。ある夜ベッドで今後のことをぼんやりと考えていた時、突然、パリに住むというアイディアが浮かんだ。前年に旅行で初めてパリに数日間滞在し、食文化の豊かさに圧倒されて、いつか腰を据えてこの街を見れたらなぁ、と思ったのが頭の片隅にずっとあったのだ。「そうだ、それしかない!」と希望に満ちた興奮が身体中をめぐり、その晩は一睡もできなかった。振り返ると人生の重要なことはこんなふうに直感で決めてきたような気がする。後日両親に相談すると、住む場所だけは事前に契約してから行くことと言われ、渡航前に現地の不動産エージェントとメールでやり取りして、モンマルトルの丘のふもとの家具付きアパートに住むことが決まる。そのほかのこと、どこで働くのかとか何をするのかとか、帰ってきた後はどうするのかとかはすべてペンディング状態で出発の日を迎えた。もちろん不安でいっぱいだったが、この経験を乗り越えた先にどんな景色が見えるのだろうという好奇心のほうが大きかった。

モンマルトルのアパートは、最上階の屋根裏部屋だった。昔は小間使いの人たちが住んでいたフロアらしく、ひと部屋ごとに小さく区切られていた。エレベーターはこの階まで通っていなくて、メインの階段も使えず、裏階段からしか上がることができなかった。7階分(日本の8階分)を毎日階段で行ったり来たりするのは大変だったけど、部屋のキッチンの窓からの眺望は素晴らしく、グレーの屋根が連なる美しい光景と、モンマルトルの丘を見渡せるのが気に入っていた。

パリでは幸いなことにふたつのキッチンで働く機会を得た。ひとつ目は現地で活躍する日本人料理家のアシスタント。パリに着いてすぐに知り合った方が紹介してくれて、到着から一週間後には働き始めていた。行動を起こすと未来は転がり始めるから不思議だ。彼女は当時、日本の家庭料理をベースにしたレストランや、ファッションウィークや個人宅でのケータリングなどをしていた。彼女がほとんどすべての料理を作り、私は野菜を切るなどの仕込みや買い出し、洗い場を担当した。パリに暮らし始めて右も左もわからない時期でもあったので、働きながら、生活する上で知っておくべきことの何もかもを教えてもらった。自宅が空き巣に遭った時—仕事から帰ってきたら、アパートの壁がチェンソーでくり抜かれていた—には、ちょうど彼女が日本に一時帰国するタイミングだったこともあり、猫シッターを兼ねてご自宅に泊めてもらったりもした。彼女の作る生き生きとした料理を毎日間近で見るのは楽しかったし、営業がひと段落した後のおしゃべりしながらの賄いタイムは最高だった。ファッションウィークのケータリングで何百人分ものランチボックスを2人で詰めたり、時には自分のレシピでケーキを焼かせてもらったり、いい経験をたくさんさせてもらった。

2つ目は大好きだったカフェレストランでのキッチンでの仕事。当時パリで何店舗か展開する店で、家の近所にもそのひとつがあり、何でも美味しいので働く前からたびたびランチをしたりテイクアウトでケーキを買ったりしていた。店の前を通るたびにいつも、強面のオーナーがカウンターの奥で誰よりもてきぱきと動いていて、彼の店への愛情を感じてほっこりした気持ちになった。縁あってその店のマレ地区の店舗で働くことになった。うなぎの寝床のような形状をした店で、入って左半分はペストリーと料理のふたつのキッチンで、右半分にはずらっと客席が並んでいた。私は料理の担当で、キッチン内では一番の下っ端。毎朝通りにごみを出すところから始まり、店先に大量に届く食材をキッチンの大きな冷蔵庫に運んだり、野菜を箱単位で大量にカットするのが主な仕事だった。中でも好きだったのが、キッシュの仕込み。毎日その日ごとに違う野菜やサーモン、ハム、チーズなどを組み合わせて何種類かのキッシュを多い時には70個ほど作る。時間のない中で組み合わせをあれこれ考えてタルトのケースに具材を詰め、アパレイユを上から流し、客席を通ってペストリー側のキッチンに運んでオーブンに入れる。焼く前のキッシュがずらりと並んだ天板を持って客席を通る時、そこに居合わせたお客さんが毎回歓声をあげるのだが、それがいつも誇らしかった。当時は自分が東京でキッシュを出す店をやるなんて考えてもみなかった。自分に与えられた役割をこなすことに毎日必死だったが、すべてが新鮮で楽しかった。あの頃の自分が今の『buik』のことを知ったらどんな顔をするのだろう、と時々思う。

プロフィール

増崎佳奈

ますざき・かな|1982年生まれ、神奈川県出身。大学では建築を学び、卒業後、建築設計事務所に勤務。その後、飲食の道への転向を決め、都内のカフェやパリのカフェレストランなどで経験を積む。2015年、南青山に『buik』をオープンした。

Instagram
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