トリップ

ゴールドラッシュをめぐる冒険 番外編 Vol.4

写真・文/石塚元太良

2025年10月20日

 毎朝6時頃、隣接するSteidlのレジデンス棟から、印刷機やデザインルームがあるオフィス棟で仕事を始める。

 ゲルハルド・シュタイデルは毎朝6時にはすでに仕事をしている。どうやら毎朝5時くらいにはオフィスにやってきて、働き始めているみたいだ。

 いつも、書類の山に囲まれて仕事をしている彼は、気軽に話しかけられないオーラを発していて、「グーテン・モルゲン」とだけ声をかけ、邪魔をしないよう心がける。

 2023年、初めてこのSteidl社で仕事を開始した時、「用事がある時には、僕の方から話しかけるから、むやみに話しかて、仕事の邪魔をしないでくれ」と言われたのを強烈に覚えている。

 遅い時には夜の21時、22時くらいまで働いているゲルハルドに、「ライフワークバランス」などという概念は、もちろんない。社員が出社してこない土曜や日曜までオフィスで静かにひとり働いている。

 聞くところによると、10年くらい前までは24時間ずっと印刷機を回し続けていて、そのすべての台の色を必ず自ら厳格に確認していて、周囲の人たちは一体いつかれは寝ているのかと、訝しがっていたという。

 ビジュアル本作り。それはゲルハルドの人生そのものであり、本作りに文字通り人生を捧げている。日本とドイツ間でメールのやり取りをしている時には、あまりにその返信のなさ、音信不通の長さに失望するが、ここゲッティンゲンで一緒に仕事を開始すると、物理的にメールの返信をする時間さえなく、彼が仕事をし続けていることがよくわかる。

 朝、Steidlのオフィス棟へ入ってくると、インクの匂いが立ち込めて、思考のスイッチが入る。その匂いは印刷したての紙から匂い立つ油分の匂いだ。

 アーティストは、それらの紙を毎朝横目で見ながら、4階ののワーキングスペースへと上がっていく。最上階4階のライブラリーが作業場所として提供されていて、そこで編集作業を一日続ける。 

 僕の今日のタスクは、オフセット印刷のための版を作っていく作業である。版は、全部で6台。108ページ。305mmx305mmの大型本である。

 版を作るためのテスト校正が上がってくると、ライブラリーの電話が鳴り、ゲルハルドと一緒にそのテスト校正に指示がきを入れていく。納得がいくまで何度でも色を修正し、再度出されるテスト校正を元にまた指示を出していく。

 指示自体は、ゲルハルドがドイツ語で入れていくのだが、その瞬間瞬間が至福だと思える。彼はスタビロの赤と青のサインペンを愛用していて、そのサインペンはSteidl社の至る所に常備してある。

 そして、その指示はいつも的確だ。1度目のテスト校正を終えると、驚くほど僕の写真たちは生き生きとしてきた。2度目以降は、僕の意見と相違することもあるが、その場合は、僕の意見を尊重してくれる。

 僕が日本の暗室から持参したオリジナルのプリントに関しては、ここSteidl社では、とてもローカルなものだと感じる。
 本と、オリジナルプリントはその性質は全く違う。本は、後世まで長く残っていくものである。一方のオリジナルプリントは、例えるなら僕の身体のように、滅びて失われていくものであるだろう。一回性の固有の「味」のようなものがある。

 けれど本の色は、経年で劣化していくとしても、グローバルな確固とした基準値のような色があり、ゲルハルドは初めから、オリジナルプリントの「味」を削ぐようにして、そんな普遍的な色を求めていく。

 写真は、平面的なものであるが、色や濃度を極限までこだわって彫塑していくとき、とても立体的に見える時がある。それには、突き詰めた環境と設備が不可欠だ。

 色はある種の迷宮である。経験がなければすぐに色の迷子になってしまう。そのとき、ゲルハルドの印刷職人としての深い経験は、アーティストにとっては、大切な道標だと感じる。

 その背中は、世界中のトップのアーティストたちが、ここゲッティンゲンで、本を印刷したい大きな大きな理由であるだろう。

プロフィール

石塚元太良

いしづか・げんたろう|1977年、東京生まれ。2004年に日本写真家協会賞新人賞を受賞し、その後2011年文化庁在外芸術家派遣員に選ばれる。初期の作品では、ドキュメンタリーとアートを横断するような手法を用い、その集大成ともいえる写真集『PIPELINE ICELAND/ALASKA』(講談社刊)で2014年度東川写真新人作家賞を受賞。また、2016年にSteidl Book Award Japanでグランプリを受賞し、写真集『GOLD RUSH ALASKA』がドイツのSteidl社から出版される予定。2019年には、ポーラ美術館で開催された「シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート」展で、セザンヌやマグリットなどの近代絵画と比較するように配置されたインスタレーションで話題を呼んだ。近年は、暗室で露光した印画紙を用いた立体作品や、多層に印画紙を編み込んだモザイク状の作品など、写真が平易な情報のみに終始してしまうSNS時代に写真表現の空間性の再解釈を試みている。