TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#2】 武蔵野音楽史序説/米軍基地と国道16号線

執筆:大石始

2025年9月21日

大石始


photo: Keiko Oishi
text: Hajime Oishi
edit: Ryoma Uchida

 尾崎豊は1985年のサードアルバム『壊れた扉から』 に収録された「米軍キャンプ」のなかで、このように歌っている。

米軍キャンプ跡の崩れかけた工場
凍りつく闇にとけ 震えてる車の中
(中略)
Oh おまえはこの街を呪い
かたくなに夢を買い占め さまよってるだろう
(*1)

 ここにはアメリカ文化に彩られた煌びやかな日々もなければ、過ぎ去りし青春時代へのノスタルジーもない。米軍キャンプ跡地に広がる荒涼とした風景のなか、行き場のない男女が震えながら抱き合う光景だけが描写されている。

 この曲では尾崎が少年時代を過ごした東京都練馬区~埼玉県朝霞市の記憶が下敷きとなっている。かつてこの一帯には広大なキャンプ・ドレイク(正式名称は米軍朝霞基地)が広がっており、朝鮮戦争の際はここから多くの兵士が最前線へと送られた。キャンプ・ドレイク内のキャバレーやクラブでは江利チエミやフランク永井もその腕を磨いていたと伝えられており、キャンプの周辺には米兵相手の街娼が集まり、その数は2,000人に及んだとも言われている(*2)。

 陸上自衛隊員であった尾崎の父は練馬駐屯地および朝霞駐屯地に勤務しており、尾崎もまたキャンプ・ドレイク周辺で多感な時期を過ごした。そのキャンプ・ドレイクも70年代中盤からは段階的に米軍接収地の返還が進められていく。1965年生まれの尾崎はそうした返還プロセスの最中、だらしなく広がる空白地帯からインスパイアされて「米軍キャンプ」を歌った。少なくとも柳ジョージのような「フェンスの向こうのアメリカ」ではなかったのである。

 武蔵野音楽の歴史を考える際、米軍からもたらされたアメリカ文化との関連を避けて通ることはできない。東京都福生市や瑞穂町など横田基地周辺、埼玉県入間市や狭山市などジョンソン基地周辺、あるいは米軍立川基地(キャンプ・フィンカム)周辺の米軍ハウスにも「武蔵野のなかのアメリカ」が形成され、細野晴臣『HOSONO HOUSE』(1973年)を筆頭とする数々の作品が制作された。

 こうした米軍基地文化は、国道16号線を伝って八王子や横浜、川越など近隣の町へも運ばれていった。八王子出身の荒井由実は16号線を使って福生や横浜へと遊びに出かけ、横浜の横山剣は福生のテーラーでスーツやシャツを仕立てた。川越の不良たちはかつて16号線を走って福生へと遊びに行ったというし、ベトナム戦争末期、横田基地から逃走した米兵を探して川越までMPがやってきたという逸話を夜の川越で聞いたこともある。

 では、基地返還後のエアポケットを近隣の子供たちはどのように受け止め、自身の創作の源としてきたのだろうか。それは従来の米軍基地文化を語る視点から抜け落ちてきたものでもあるだろう。その意味でも尾崎豊の「米軍キャンプ」こそが重要なのだ。


*1:尾崎豊「米軍キャンプ」
*2:牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)

プロフィール

大石始

おおいし・はじめ|1975年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード店店主や音楽雑誌編集者のキャリアを経て、ライターとして活動。世界各地の音楽や祭りを追いかけ、地域と風土をテーマに取材・執筆を行っている。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」を主宰。著書に、『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』(キルティブックス)、『異界にふれる ニッポンの祭り紀行』(産業編集センター)など。

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