TOWN TALK / 1か月限定の週1寄稿コラム

【#1】武蔵野音楽史序説/武蔵野とは?

執筆:大石始

2025年9月14日

大石始


photo: Keiko Oishi
text: Hajime Oishi
edit: Ryoma Uchida

 作家の国木田独歩は明治29年、渋谷村(現・東京都渋谷区宇田川町)の丘の一角に移り住む。当時の渋谷村は明治40年代以降に玉川電車や東京市電が乗り入れ、歓楽街として発展する前の時期。のちに宇田川町となる一帯にもまだまだ畑が広がっており、武蔵野の面影を色濃く残していたのだという。その前年に妻と離婚をして傷心の日々を送っていた独歩には、のどかな武蔵野の風景は心休まるものがあったのだろう。

 秋のはじめ、眼前に広がる武蔵野の風景を感じながら、独歩はこんな句を詠む。

昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく(*1)

 独歩の代表作とされる『武蔵野』では、美しいこの句を皮切りにしながら、明治の武蔵野に広がっていた雑木林と畑と野原の風景が瑞々しく描かれていく。

 国木田独歩が著作で描いた武蔵野が「静」の一面だとすれば、「動」の一面とは、三多摩壮士と呼ばれる政治運動家たちが活発な活動を繰り広げていた、自由民権運動の地としての武蔵野である。

 民俗学者の赤坂憲雄は、五日市憲法と呼ばれる私擬憲法を明治14年に起草した西多摩郡五日市町の自由民権運動家、千葉卓三郎の例を挙げながら「ここ(武蔵野)には何か、国家に対する抗いの気分や、博徒やアウトローの人が影を潜めるような感じもあったと思うんです」(*2)と武蔵野の地に息づく風土について論じている。また、赤坂は同じ対談においてこんな発言もしている。

 反骨や抵抗の舞台がそこにある。暗い、アナーキーな情念も抱え込んだ精神風土がそこに横たわっている。これはフィクションではありません。おそらく現実にそれが存在した。武蔵野台地そのものが、そういう精神史的な闇に触れているような、同時にそこから反骨や抵抗が生まれてくるような、何か可能性を深いところに抱えているんじゃないかと思います。(*2)

 都心から遠く離れた武蔵野の地、いわば都心という中心に対する周縁のエリアには、多種多様な音楽の歴史が刻み込まれてきた。そのひとつひとつを捉え直すことで、新たな「武蔵野音楽史」が浮かび上がらせることはできないだろうか。最近そんなことを考えている。

 70年代、狭山の米軍ハウスに移り住み、のちに所沢の教会で牧師として生涯を送った小坂忠はこう話している。

 都心に対するカウンターという気持ちもありました。(中略)都心から離れた周縁だからこそ生まれるものが間違いなくあったと思います。(*3)

 たとえば、細野晴臣の『HOSONO HOUSE』やRCサクセションの『シングル・マン』、ceroの『WORLD RECORD』などの作品に、国木田独歩や千葉卓三郎から受け継がれたものを探してみる。そんな作業を経て、いったいどんな「武蔵野音楽」の歴史が浮かび上がるのだろうか。

 ここからの4回、いずれまとめられるであろう「武蔵野音楽史」の序説として思考の一端を書き連ねてみたいと思う。


*1:国木田独歩『武蔵野』(新潮文庫)
*2:雑誌『東京人』(都市出版) 2019年5月号所収、吉増剛造との対談「周縁から自由の芯が現れる。』
*3:雑誌『東京人』(都市出版) 2019年5月号所収、小坂忠インタヴュー「都心から少し離れて、自分の歌を探す」

プロフィール

大石始

おおいし・はじめ|1975年、東京都生まれ。大学卒業後、レコード店店主や音楽雑誌編集者のキャリアを経て、ライターとして活動。世界各地の音楽や祭りを追いかけ、地域と風土をテーマに取材・執筆を行っている。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」を主宰。著書に、『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』(キルティブックス)、『異界にふれる ニッポンの祭り紀行』(産業編集センター)など。

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