カルチャー

二十歳のとき、何をしていたか?/浅野いにお

2025年2月18日

photo: Takeshi Abe
text: Neo Iida
2025年3月 935号初出

インターネット黎明期の2000年。
外界と通信が遮断された夜の山道を、
孤独と向き合いながら歩いた。

友達が一人もいない、
暗澹とした大学生活。

 様々なプラットフォームで配信中のアニメシリーズ『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は、世界の終わりに直面する女子高生たちの物語だ。青春と終末が交錯する、儚く眩しい青春譚。原作者でありオープニングテーマ「SHINSEKAIより」(ano×幾田りら)の作詞、作曲も手掛ける浅野いにおさんは、世界が滅びると予言された20世紀末に二十歳の大学生だった。しかしその日々は、キラキラとしたものではなかったという。

「友達もいないしゼミの同級生ともほとんど仲良くなくて、上京後に付き合った彼女とも別れてしまって、めちゃくちゃ孤独な時期でした。暗澹というか、ネガティブでどんよりしていたと思います」

 茨城の高校を卒業後、東京と横浜の境にある大学に通うため、町田に部屋を借りた浅野さん。二十歳の頃は誰とも接点がなかったというけれど、例えばバイト先の付き合いは?

「それがもう本当に社交性がなさすぎて、バイトも一切しなかったんです。当時から、年に1回ぐらい漫画雑誌に短い漫画が載る感じではあったんですよ。もちろんそれだけで生活できるような原稿料ではないんですけど、バイトしてる暇があったら漫画でどうにかしなきゃみたいな言い訳をしながら、ひたすら家に籠もっていました」

 高校2年生で応募した作品が小学館の漫画雑誌に掲載されデビュー。すでに作家生活が始まっていたのだ。そんな浅野さんが漫画と出合ったのは幼少期。お姉さんに薦められたのがきっかけだという。

「最初はやっぱり『少年ジャンプ』でしたけど、早くから青年誌の不条理漫画を読んで育ちました。大人向けの漫画があることを10代のときから知っていた、若干ひねくれた子供だったと思います。高校も文化的な友達が多かったので、流行りものを追いかけるというより’60年代とか’70年代の漫画を遡って読んでいました」

 絵を描くのは小さい頃から得意だった。しかし高校生ともなると美術を学んだ生徒に追い越されてしまう。劣等感を抱え、それでも「これぐらいしか特技がない」という思いを抱えながら作品を描いた。漫画を描くには画力だけでなく物語を構築するスキルも必要だと思うけれど、ストーリーテリングも得意だったんだろうか。

「そもそもストーリー作りに興味がなかったんですよね。なので、その頃は自分が読んできたアイデア勝負のギャグとかホラーっぽい漫画を描いていました。本当に気まぐれで、思い付きで投稿した漫画がそのまま掲載されたんです。めちゃくちゃ勇気を振り絞ってやったことなので、こんなこと何回も続けられないと思って、最初に持ち込んだ人にしがみつくようにして、上京後もずっと打ち合わせを続けました」

 4年生になると不定期連載がスタート。連載を抱えるなんて「漫画家=自分の仕事」という意識が芽生えそうだけれど、浅野さんの心中はずっと不安だったという。

「漫画家の自覚なんて、30代になるまでなかったです。当時は連載といっても、軌道に乗るまでいつ終わるかわからない。それに、当時は2ちゃんねるがようやく出てきた時期で、外からの評価がわかりづらかったんですよ。単行本の部数でしか自分の漫画が読まれてるかどうか実感がなかった。そのぶんストレスもかからなかったけど、反響がわからない状態で描くしかなくて、ただただ不安。漫画を積み上げていくしかない、先が見えない状況でした」

 周囲と断絶し、漫画を描く毎日。当時の孤独は今とは違うと浅野さんは言う。

「横浜市の境の、ちょっと行ったら山みたいなところに住んでたんです。携帯はありましたけど、ネットの普及もまだまだで、一部の人がやってるくらい。夜になると誰とも連絡が取れないし、テレビの放送が終了したら情報が入ってこない。コンビニは開いていても夜間はATMで現金をおろせない。とにかく孤独だったんです」

 当時から夜型だった浅野さんは、夜にすることがなくなるとひとり街を歩いた。

「歩くしかないんですよ。田舎で比較的遅くまで開いてる店って中古ゲーム屋しかなくて、毎晩そこまで行ってゲームの値段を全部見る。だからどのゲームがいくらで売ってるか、価格の変動を把握してました(笑)。そのあと山道を歩いて帰るんですけど、携帯にマップ機能なんてなかったから遭難するんじゃないかと怖くて。最終的に星の位置を頼りに家まで帰ってました」


AT THE AGE OF 20


ようやく遊び始めた大学4年生を振り返ると「中退する気で授業をサボってたので、ラスト1年で単位をフルで取らないといけなくて。月に16ページの漫画を手探りで描きながら卒業制作もやって、めちゃくちゃ忙しかったです」。写真は音楽フェスに行った際に友人に撮ってもらったもの。「撮られるのが得意ではないので昔の写真はほぼ残ってないのですが、これはその中でもちゃんと正面を向いている数少ない写真の一つ。ピースするならちゃんとピースしろと言ってやりたい」

大学4年のゼミ合宿で、
「友達にして」と告白。

 大学3年生の夏休みは、丸々2か月誰とも話さなかった。このままではいけないと思い、浅野さんは一念発起する。

「夏休みの終わりのゼミ合宿で、同級生に『友達にして』って言ったんです。孤独な生活がきついっていうより、むしろその状態が平気なことに焦ったんですよね。どこまでもこれでいけちゃうって。誰にも認識されない生活って、存在しないのとほぼ同じ。その虚無感と虚しさに気がついて、やっぱり他人から定義されて自分があるよなと。それでグループに入れてもらって、今までを取り戻すかのように遊びました」

 大学4年目にして始まった賑やかな日々は、制作にも影響を及ぼした。

「カラオケや飲み会なんて普通のこと過ぎて漫画のネタにならないかもしれないけど、僕からすると1個1個がすごく新鮮で。みんなこういうマインドで遊んでるんだなと、半分研究するみたいに客観性を持って遊んでた記憶があります。面白いもので、孤立していたときに描いていた漫画は基本ギャグとホラーだったのに、友達ができてからは現実的なモラトリアムっぽいものや、半径の狭い世界を丁寧に描く作風にシフトしていって。大学生ごっこをするようになって明らかに変化しましたね」

 大学卒業後はいよいよ漫画中心の生活に。それでも、浅野さんの中では「漫画家」という意識は乏しかったという。

「あえて漫画家らしい生活をしないようにしていた部分もありました。『自分は漫画家だ』って意識を持ってしまうと、いかにも漫画家みたいな漫画を描きそうになる気がして。一般人の視点で描くには自分も一般人であるべきだと思って、特に『ソラニン』の頃はフリーターっぽく振る舞っていた気がします」

 そういった漫画家としての姿勢も、自分なりに考えて出した答えだ。二十歳の頃の孤独な時間が、浅野さんのその後を形作ったともいえる。

「価値観を固める時間だったと思います。しかもその価値観は他人から教わったのではなくて、あくまで自分の中から出てきたもので出来てるので、ものすごく強固なんです。絶対崩れない。たまに、会話中に色々突っ込むと答えられなくなる人がいるんですけど、それってよそで聞いたことを喋っているからだと思うんです。自分の言葉って、結局自分で考えないと出てこないんですよ。考えを固めるための時間を半強制的に作れたのは、本当に有益だったなと思います。そう考えると現代って完全に孤独な時間を作れないからしんどいですよね。若いうちはスマホを捨てたほうがいいと思います。スマホを捨てて街に出ましょう」

プロフィール

浅野いにお

あさの・いにお|1980年、茨城県生まれ。高校2年生のときに『ビッグコミックスピリッツ増刊Manpuku!』(小学館)でデビュー。代表作に『ソラニン』『おやすみプンプン』(同)など。現在『ビッグコミックスペリオール』(同)で『MUJINA INTO THE DEEP』連載中。

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取材メモ

二十歳になる前から出入りしていた小学館の社内で撮影。当時、新世紀を迎えようとしていた2000年の空気感について浅野さんはこう話してくれた。「世界が終わると思ってたのに終わらなくて、『世紀末、結局なかったよね』みたいな、急に放り出された気持ちでした。みんな20代ってものを設定してなかったし、『働けって言われてもな』って。ゼミの同級生も就職活動したのは1人くらいで全員フリーター。働かなくてもいいんじゃないって雰囲気が漂ってましたね」